あのブラジル人Jリーガーはいま第7回ワシントン(後編)>>前編を読む 2004年、心臓疾患の手術から完全復活したワシント…

あのブラジル人Jリーガーはいま
第7回ワシントン(後編)>>前編を読む

 2004年、心臓疾患の手術から完全復活したワシントンは、アトレティコ・パラナエンセをブラジル全国リーグ2位に導き、33ゴールを決めて得点王となった。

 彼はこの年、サッカー誌『プラカル』の選ぶボラ・ジ・プラタ(最優秀ストライカー)に選ばれ、RSSSF(サッカーに関する統計情報を収集する国際組織)が選ぶ世界最優秀選手のひとりにも選ばれた。ロナウジーニョやその他の有名スポーツ選手を抑え、一般のファンからの投票によるブラジルメディ協会の"今年のブラジルスポーツの顔"にもなった。

 これらの受賞を祝う間もなく、2005年の1月、その姿はすでに東京にあった。彼のゴールに魅せられた東京ヴェルディがワシントンを獲得したのである。



2007年、浦和レッズの一員として、クラブW杯でミランと対戦したワシントン photo by Yamazoe Toshio

 ワシントンの日本デビューは、稀にみるほどの最高の形となった。初戦のゼロックススーパーカップの横浜F・マリノス戦でいきなり2ゴールを決め、PK戦を経てタイトルを手に入れている。

 その後、Jリーグの開幕戦でもゴールを決め、そのシーズンは32試合で22ゴールをマークした。ヴェルディのこのシーズンのゴールの合計が40であったので、ワシントンはその半数以上をたったひとりで決めたことになる。

 ワシントンの活躍にもかかわらず、ヴェルディはJ2に降格するが、その年J1で2位だった浦和レッズが彼の獲得に乗り出し、翌年から彼はレッズの一員となった。

 新たなチームで、ワシントンはすぐにタイトルを勝ち取る。2006年元日の天皇杯決勝ではプレーしなかったが、2月のスーパーカップでレッズはガンバを下し、勝利した。ワシントンは0-1でリードされていたレッズに同点ゴールをもたらし、勝利への弾みをつけた。

 前年2位のレッズはもちろん優勝を狙っていた。だからこそ彼らはワシントンを獲ったのだ。2006年、レッズを日本の頂点に率いたのはワシントンだった。26試合で26ゴールを決め、その年のJリーグ得点王になった。

 翌2007年は、前年に比べると調子は落ちたが、それでも16ゴールを決めている。リーグ戦でレッズは鹿島アントラーズに及ばず2位となった。

 しかし、この年のレッズにはアジアチャンピオンズリーグがあった。レッズは史上初めて、グループ戦から決勝まで1試合も落とすことなく勝ち進み、アジア代表となって年末のクラブワールドカップの出場権を手に入れた。

 おそらくレッズの歴史は、ワシントンを抜きにしては語れないだろう。クラブワールドカップでは準決勝でミランに敗れたものの、3位決定戦ではチュニジアのエトワール・サヘルを破り、レッズは日本のチームとして史上初めて3位に輝いた。この試合、2-2だった規定時間内の2ゴールも、PK戦の1本目も、決めたのはワシントンだった。

 レッズにとってワシントンはゴールマシンだった。

 結局、日本では3シーズンで85試合に出場し、64ゴールを決めた。浦和時代、なぜ多くのゴールを生み出したのか、その秘密をこう語ってくれたことがある。

「はっきり言って、私の心臓はいつ止まってもおかしくなかった。だから試合のたびに、これが人生で最後の試合かもしれないと思ってプレーしていた。人生最後の試合に手抜きはできない。きっとそれがいい結果につながったのだと思う」

「コラソン・ヴァレンチ」――ブレイブハートの言葉は、まるで歌のように、詩の一節のように、私の心に響いた。

 クラブワールドカップから4日後、32歳のワシントンはブラジルの強豪フルミネンセからオファーを受ける。フルミネンセは、リベルタドーレス杯に勝ち残るために彼がほしかった。ワシントンにチームのリーダーとゴールゲッターを任せたかったのである。

 ワシントンは日本でプレーを続けたかったが、同時にブラジルへの郷愁もあった。結局、ワシントンはフルミネンセに移籍した。

 いつものように、ワシントンは新チームのデビュー戦で第1号のゴールを決め、その後もゴールを量産し続けた。そして2008年のフルミネンセのリベルタドーレス杯の原動力となった。

 なかでもドラマチックな戦いは準決勝のボカ・ジュニアーズとの一戦だった。1戦目のボンボネラでの試合は2-2の引き分けだった。2戦目はボカが先制したが、ワシントンが後半17分にFKから同点ゴールを決め、フルミネンセの反撃の口火を切った。結局フルミネンセは3-1で勝利し、決勝に駒を進めたのである。

 期待どおり、32歳のストライカーはチームをひっぱってくれた。優勝こそできなかったが、ワシントンはフルミネンセの勇気と闘志のシンボルとなった。

 すでに33歳になっていたが、彼は押しも押されもせぬリオのスターだった。リベルタドーレス杯だけでなく、ブラジル全国リーグでも21ゴールを決め、二度目の得点王となる。ワシントンの勢いは決してとどまることを知らないように思えた。

 2008年の12月、ワシントンはブラジル最大のクラブのひとつサンパウロと契約を交わした。サンパウロはその年のブラジルチャンピオンでもあった。

 2009年1月にサンパウロでデビューをした時も、彼はまたも名刺代わりに2ゴールを決めた。このシーズンのワシントンの成績は56試合で32ゴール、34歳にして1試合平均0.57ゴールは信じられない数値である。

 サンパウロの幹部は喜んで契約を1年延長した。しかし翌シーズンはワシントンの出番はほとんどなく、7月にはまたフルミネンセに戻った。

 フルミネンセでは、キャプテンだったフレッジからその座を譲り受け、エメルソンとコンビを組んだ。2人ともベテランだったが(エメルソンは32歳)、パワフルな攻撃力でチームをブラジルチャンピオンに導いた。

 生涯にわたってゴールを量産しまくったワシントンだが、この年の9月15日にコリンチャンス戦で決めたゴールが現役最後のものとなった。その後も15試合プレーしたが(うち13試合がスタメン)、ゴールは生まれなかった。

 ゴールしなかったのは、決して力が衰えたわけではない。彼は他の選手にゴールさせるようになったのだ。全国制覇を決める1戦となった12月5日のグアラニ戦でも、ワシントンはチャンスボールをエメルソンにつなぎ、彼がゴールを決めている。この試合にフルミネンセは勝利し、優勝を飾った。

 フルミネンセは契約延長を持ちかけたが、ワシントンはここで引退を決意した。

「私はいま、サッカーの世界から去ろうとしている。苦渋の決断だが、人は謙虚になることも大事だ。私はサッカーに多くを捧げ、私もサッカーから多くを得てきた。これは決して消えることはない。私は自分の夢を実現した」

 2011年1月、試合のハーフタイムに行なわれた引退セレモニーで、彼は涙を見せた。多くのサポーターが惜しみない拍手を彼に送った。こうして最もパワーのあるブラジルのストライカーのひとりが姿を消した。

 引退後のワシントンは、カシアス・ド・スルに戻り、建設会社を設立した。またその名声と好イメージをバックに、2012年にはカシアスの市議選に出馬、最高の得票数で当選した。

 2013年にはベベットに誘われ、改装後のマラカナンのこけら落としイベントのフレンドリーマッチに出場した。ワシントンはロマーリオの控えだったが、交代して入ると、ベベットからのクロスを受けてゴールを決めた。2014年W杯に向けて作られた新生マラカナンの初ゴールはワシントンが決めたものだった。

 ブラジルや国外で監督のライセンスも取得、2017年にはビトーリア・ダ・コンクェスタ、2018年にはイタバイアナの監督を務めたが、それ以降チームを率いることはなく、活動の比重は政治の方へと傾いていく。

 2018年の終わりにはブラジルの下院議員に繰り上げ当選し、ワシントンはボルソナロ政権のスポーツ省長官に選ばれ、7カ月間その職を務めた。議員を辞めた後は、サッカー連盟のブラジルサッカー推進ディレクターに着任。ただ今年の2月にはそのポストを解任されている。その原因はある試合だった。

 コパ・ド・ブラジルのカシアス対ボタフォゴ戦。ワシントンは連盟の一員として、この試合に立ち会った。微妙は判定があった時、テレビカメラは、ワシントンが古巣のカシアスベンチに近づき、監督やコーチに問題のシーンの動画をスマホで見せていたところを抜いていた。連盟役員が、片方のチームに肩入れしているととられても、おかしくないシーンだった。

 SNSはまたたくまに炎上。連盟は試合中に不適切な行動をしたとして、ワシントンを解任した。実はワシントンはピッチに降りる許可を得ていなかったと審判は言う。この2月から、ワシントンは政治活動もサッカーの仕事も一切していない。彼はこの軽率な行為を、心から悔いているという。

ワシントン
本名ワシントン・ステカネロ・セレケイラ。1975年4月1日生まれ。ポンチ・プレタ、フェネルバフチェ(トルコ)、アトレティコ・パラナエンセなどを経て、2005年、東京ヴェルディに移籍。2006、07年は浦和レッズでプレー。その後もフルミネンセ、サンパウロで活躍し、2011年、現役を引退した。