川崎フロンターレ 庄子春男強化本部本部長インタビュー「DAZN Jリーグ推進委員会」のスポーツ・サッカーメディア連動企画…
川崎フロンターレ 庄子春男強化本部本部長インタビュー
「DAZN Jリーグ推進委員会」のスポーツ・サッカーメディア連動企画である「THIS IS MY CLUB-FOR RESTART WITH LOVE-」。Jリーグ再開にあたって、各クラブの選手、スタッフをインタビューする。スポルティーバでは、川崎フロンターレで強化本部本部長を務める庄子春男氏に、これまでの印象的な出来事とクラブへの思いについて語ってもらった。
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川崎フロンターレの歴史をつくってきた、庄子春男強化本部本部長(写真中央)
--7月4日から約4カ月ぶりにJ1が再開します。今の心境を聞かせください。
「やっとはじまるな、というのが正直な気持ちです。実は今シーズン、開幕前から例年よりもワクワクしていたんです。年齢構成的にも、ポジション構成的にもチームのバランスが非常に取れている印象があって、ドキドキよりもワクワクしていたんです。そのワクワク感は中断を経た今も変わっていないですね」
--クラブ創設時からチームの強化に携わる仕事をされてきたなかで、大きな決断を迫られたタイミングを思い起こすと、いつになりますか?
「パッと思い出すのは、2つありますね。1つは2000年にJ2へと降格したことです。そもそも私は、前身となる富士通サッカー部出身で、選手引退後は10年間、社業に従事していました。富士通サッカー部はJリーグ発足時に参加に手を挙げなかったのですが、その後、プロ化の検討も含め、チームの運営を手伝ってほしいと、96年からチームに呼ばれたんです。
当時のフロントは3人。スカウティングからチーム編成、運営や広報までやっていましたね。その後、99年にJ2に参入したわけですが、00年にはJ1降格という結果になってしまいました」
--昇格わずか1年で、再びJ2に降格する形でしたよね。
「その時、当初から中心としてやっていた方が、責任を取って身を引いたんです。自分も……と思っていたのですが、その方から『お前は残れ。これまでやってきたことを活かす人間がいなければダメだ』と言われて、私は残る決断をしたんです」
--それがフロンターレにとってリスタートとなった01年だったんですね。
「今振り返ってみると、そうなのかもしれませんね。当時の我々は、親会社から出向している意識がやはり残っていた。一方で、選手はフロンターレで活躍できなければ、行くところがなくなる。選手はそうした状況なのに、我々は結果が出なくても戻るところがある。それではやっぱりダメだなと。責任を取って退いていった方の姿を見て、自分の中にもより強い責任と覚悟が生まれたというか。我々もプロにならなければいけないと、その時感じたんです」
--今日までのクラブの歴史を振り返ると、そこから積み上げてきた印象があります。
「00年にJ2に降格した原因を振り返った時、所属選手の半数がJ1昇格に貢献したメンバーで、残り半数が新加入選手でした。そうした選手たちに同じベクトルを向かせるのがいかに難しいかを痛感したんです。だから01年からは、じっくりと、J1に昇格しても落ちないチームづくりを目指してきました。年齢の若い選手を獲得して育てることも考えましたし、アカデミーの強化にも力を入れて自前の選手を育てていこうとも考えるようになったのは、この時ですね」
--まさにその時期が、ちょうど……。
「(伊藤)宏樹(現・強化本部)であり、(中村)憲剛。ブラジル人ではジュニーニョですよね。そうしたメンバーを集めて、だんだんとチームとして形になっていく流れになったんです」
--先ほど、2つあると言っていましたが、もう1つの大きな決断とは?
「(12年途中に)風間(八宏)監督を招聘した時ですよね。実はあの時、監督として実績のある人たちがかなり空いていたんです」
--そのなかで当時、プロチームの指導経験がなかった風間さんを抜擢したのは驚きでした。
「以前から”攻撃的”なサッカーは目指していて、憲剛とジュニーニョのコンビでよく点は取ってくれるようになっていました。だから、ある程度の基礎は築けていたんですけど、カウンターが主体だったこともあって、相手に引かれると、いかんせんゴールを奪えずにいた。そうしたなかで、私自身も『攻撃的なサッカーって何なんだろう?』と、深く考えてしまったんです」
--なるほど。
「そうした時、たまたま大学サッカーの試合を見に行く機会があったんです。それが、風間監督が率いていた筑波大学の試合でした。見れば、点は取られるけれども、それ以上にゴールを決めて勝ってしまう。パスはつなぐし、ボールポゼッションも高い。ゴール前でフリーだったとしても、さらにつなぐ。(ボールを)つなぎ倒すとでも言えばいいですかね。それがあまりに強烈だったんです」
--たまたまというのが、またすごいですね。
「たしか対戦相手に獲得を検討していた選手がいて、その選手のプレーを見に行ったんです。でも、筑波大学がやっていたサッカーのインパクトがあまりにも強くて。自分の中で考えていた攻撃的サッカーは、こういうことではないかと、答えが見つかったような気がしたんです。それで声を掛けさせてもらったんです」
--00年にJ2降格を経験した際、チームづくりに関して、「じっくり」というコンセプトを思ったように、覚悟を持って託したところもあったのでしょうか?
「改めて、その時にも思いましたね。風間監督が就任して2年目の13年、開幕から6試合勝てなかったんです。周りからもかなりプレッシャーは掛かりましたけど、やろうとしているサッカーが浸透するには、時間が掛かるのはわかっていたので、ここは我慢だな、耐える時だなと。でも、あの時は結構、しんどかったですね」
--監督を変える決断もできたところで、支えることを選んだからこそ、今のフロンターレがあるように思います。
「可能性はすごく感じていたんです。勝てずとも内容はずっと悪くなかった。私だけでなく、クラブもそうですし、何よりサポーターも我慢してくれた。もともと、常にチームの後押しをしてくれるサポーターですが、あの時は本当に我慢してくれたと思っているんです。それが最終的には、今に結びついているのかもしれません」
--振り返ったとき、いちばんうれしかったのは、やはり……?
「(17年の)初めてのJ1優勝になりますよね。そこを目指してずっとやってきましたから。感情を爆発させることはなかったですけど、これまでのいろいろなことが思い浮かびましたね。ピッチレベルに降りていって、憲剛と会った時には、さすがにグッと来るものがありましたから」
--フロンターレと言えば、ホームゲーム時のイベントをはじめ、企画力もクラブの特徴の一つです。ただ、そこには強化本部の理解もなければ実現しないように思います。
「これも01年が大きな分岐点になっていると思います。J2に降格して集客が、前年の半分近くに落ち込んだんですよね。事業部のほうからは、前々から地域のイベントやクラブの企画に選手を参加させたいとの要望があったのですが、現場としては、やはり、待ってくださいという時もあった。でも、この時にチームとしても協力しよう、やってみようという話になったんです。
選手のなかには、ピッチで結果を出せばいいと考える人もいるかもしれない。でも、そのスタジアムがガラガラなよりも、少しでも多くのファン・サポーターがいる前でプレーしたほうが喜びは大きいですよね。だから、選手たちにも協力してほしいと。結果的に選手たちのキャリアに跳ね返ってくるものでもありますから。宏樹や憲剛が積極的に協力してきてくれたので、今ではそれも積み上がってきていることの一つになっていると思います」
--うれしいことに、今ではホームの等々力も満員になる機会が増えました。
「ありがたいことですね。もちろん、チームが結果を出すことは大前提ですが、いろいろな企画を考えてくれている事業部、そして協力してくれている選手たちがいて、そこを評価してもらっている部分もあると思います。でも、忘れてはいけないのは、一気にこうなったわけではなく、時間をかけて積み上げてきた結果だということ。そこは本当に忘れてはいけないですよね」
--最後に漠然とした質問になりますが、庄子さんにとってフロンターレとはどういう存在なのでしょうか?
「何でしょうね。考えたこともなかったですから。フロンターレは私にとっては日常の一部、それはほかのスタッフや選手たちも同じ、常に応援してくれているサポーターの方々も同じかもしれません。それくらいきっと、日常なんでしょうね。スポーツの世界なので、勝った、負けたに一喜一憂するし、毎日いろいろ刺激的なことがあるので疲れちゃうこともありますけど…(笑)。きっと、これがなくなったらさみしいんだろうなという思いもあるんですよね」
庄子春男
しょうじ・はるお/1957年生まれ、宮城県出身。宮城工、東北学院大を経て、川崎フロンターレの前身の富士通サッカー部でプレー。引退後1996年よりチームの運営に携わる。00年に強化部長に就き、選手獲得など現在に至るまでのフロンターレをつくり上げてきた。現在は強化本部長(GM)を務める