根本陸夫外伝〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実連載第13回証言者・島田正博(1) スーツ姿の男たちが、荒れ地のようなグラウンドでVの字に並んだ。1979年1月、建設中の西武球場。腕を組む監督の根本陸夫を先頭に野村克也、田淵幸一、東…

根本陸夫外伝〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実
連載第13回
証言者・島田正博(1)

 スーツ姿の男たちが、荒れ地のようなグラウンドでVの字に並んだ。1979年1月、建設中の西武球場。腕を組む監督の根本陸夫を先頭に野村克也、田淵幸一、東尾修、土井正博、森繁和ら選手15名全員が腕を上げ、拳を握っている。当然ながら、「V」はVictoryを意味する。



建設中の西武球場に視察に訪れた根本陸夫(写真中央)以下、15人の選手たち

 このマスコミ向けの写真撮影を、球場準備室の島田正博は傍らで見ていた。当時を振り返って「あのVは空振りだよ」と笑う島田は、のちに西武の名物マネージャーとして知られた男である。

 国土計画から手伝いに来て当初は球場広報も務め、1982年から二軍マネージャーとなった。チームと密接に関わり続けたなか、最も強く印象に残っているという根本の思い出を聞いた。

「初対面の時はね『なんだ? このオッサンは』と思いました。そりゃそうですよ。見た目は任侠映画の世界そのまんまで、実際、法政大の時は硬派学生でしょう......一度、根本さんとコーチの浦田(直治)さん、城戸(則文)さんと一緒に新宿を歩いたら、あきらかにそっち関係の連中がよけて頭下げましたからね。何か、自分が偉くなったような気になりました(笑)」

 戦後の焼け跡、闇市の時代。ヤクザが暗躍し、硬派学生もからみ、東京のあちらこちらで大小の争いが起きていた。根本は法政大野球部に所属しながら渋谷など硬派学生気取りで暴れ回り、新宿でも顔を知られていた。その名残が、70年代から80年代の新宿にはまだあったのだ。

 もともと資産家の跡取りとして生まれたこともあり、根本は悪党にはならなかった。ただ、根本と同年代で、互いに意識する存在に安藤組の安藤昇がいた。「インテリヤクザ」と言われ、一時は芸能の世界でも名を上げた安藤のことを、根本は球界の人間にもよく話した。なかでもケンカの仕方を好んで伝えたそうで、島田も常に興味津々で聞いていた。

「会わせてほしかったですよ、安藤さんに。オヤジに頼んだら『わかった』って言ってくれたけど、結局、そのままになっちゃった。でも、そういう話を聞いていたらね、オヤジもそうなんだ、と思っちゃいます。変な話、プロ野球も興行じゃないですか。だからオレ、やっぱり興行にはその世界の人たちがからむものなんだなって、当時は真剣に思っていましたよ」

 ほかの信奉者たちと同じように、島田も根本のことを「オヤジ」と呼んでいた。もっとも、島田の場合、監督対選手の関係が原点にある野球人とは違って、初めからチームスタッフという立場。「根本さんは球界の先輩」という意識は希薄だから、ときに言葉がエスカレートした。

「たまに、何か気に入らないことをオヤジに言われて頭にきたら、『おっさーん!』って怒鳴ってました。選手とは違って、オレはそういうことを言ってもいいというか、言えました。たしかに、コーチの人は言えなかったと思う。まあ、オレも言ったあとで『やばいな』と、何回も思ったけどね(笑)」

 度胸十分の島田は、当時30代前半。都立高の軟式野球部が"最終球歴"ではあったが、それでも「野球の経験がある」ということで、西武ライオンズ誕生と同時に関わった。クラウンライター=福岡野球から来た経験者はごくわずかで、国土計画のほか西武グループの鉄道、建設、不動産各社から寄せ集めた人間がフロントに入っていた。

 そもそも、オーナーの堤義明はスキーやスケート、アイスホッケーといったウインタースポーツを好み、選手の育成にも力を入れていた。だが、野球自体はほとんど知らない。球場広報だった時の島田は、まさに西武球場でその最たる場面を目の当たりにしていた。

「(堤)義明さんが試合を観に来ていて、ツーアウト、ランナー一塁で盗塁したんです。タッチアウト。そしたら『次の回、バッターはどうなるんだ?』と秘書に聞いた。秘書は元スキージャンプの選手で、『バッターはアウトです』と答えて『おお、そうか』。で、ちょっと間を置いて、『それだったら4アウトになるだろ。おかしいじゃないか』って。それぐらい周りも知らなかったんです」

 逆に、島田にはプロ野球の現場を覗いた経験もあった。家庭の事情で広島に住んでいた中学時代、広島市民球場でボールボーイを務めた。プレー中のグラウンドを注視しつつもベンチの雰囲気が伝わってくる、選手と些細なやり取りをするだけでも性格を感じ取れる。ゆえに、根本を「なんだ?」と思った以外は違和感なく関わることができた。

「でもね、違和感はともかく、オヤジには初めから可愛がってもらっていました。しょっちゅう、『ちょっと来い』って呼ばれてね。飛んでいくと、『気の利いた、メシ食うところを探せ』と頼まれて。で、オヤジの行きつけの店はあったんです。新所沢の寿司屋と小料理屋。この二軒はもともと、コーチ陣のために使っていたんですね」

 根本が埼玉・所沢市の一軒家に住んでいた一方、大半のコーチは、球団が手配した西武建設の社宅に住んでいた。その社宅が新t所沢にあり、単身で来ているコーチたちの食事の負担を軽くするために二軒を使っていた。いずれも、根本が不在の時でも使っていいことになっていた。

「私もよくオヤジ抜きで連れていってもらったんだけど、その時は勘定がえらい安いんです。というのは、安くなったぶん、あとからオヤジが払ってくれていたわけです。そのあたり、全部は面倒を見ない。これがまったくのタダだったら甘えちゃうし、かえって行きづらくなる。だから、そういう細かい配慮がうまかったと思います」

 根本自身、アルコールはワインを少し飲む程度でも、コーチやチームスタッフを酒席に連れて行くことを好んだ。麻雀にしても、「わざと負けているのかと思うぐらい下手くそ」だったそうだが頻繁に卓を囲み、常に真剣に打っていた。ゴルフもさほどうまくはなかったものの、それなりに楽しんでいる様子だった。

「同じ大会に出て一緒に回ったことがあるんだけど、あの人、まず素振りをしないんですよ。ボール置いたらすぐポーンと打っちゃう。オレも下手だからボロカスに言われたけど、『アンタ、どれだけうまいんだよ』って(笑)。ただ、ゴルフと言えば、オヤジは木のシャフトのクラブが入ったゴルフセットを持っていて。それを『おまえにやる』って言われたんですよ」

 二軍マネージャー就任が決まった時、島田はほかのチームスタッフとともに根本の自宅に招かれた。食事を終えたあと、年代物の貴重なゴルフセットが披露され、いきなり進呈されることになった。根本家から島田の自宅まで徒歩5分程度で、そのまま持ち帰ればいいはずだった。

「本当に歩いてすぐなんだけど、ちょっと酒も入っていたし、めんどくさくなっちゃって(笑)。『今度、車で受け取りにうかがいます』って言って、そのまま取りに行けなかったんです。もう今さら、うかがえないです。まだあるのかどうか、わからないですけど。でも、『やる』って言われた時のうれしさは忘れられないですね」

 それほど根本に可愛がられていた島田だが、二軍マネージャー1年目は戸惑いがあった。国土計画時代は同社のアイスホッケーチームと付き合いがあり、マネージャー経験もあったから、仕事自体に支障があったわけではない。が、プロ野球界の常識と一般常識の違いが理解できず、コーチに怒鳴られ、根本にまで怒られた時があった。

つづく

(=敬称略)