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スーパーエース・西田有志 
がむしゃらバレーボールLIFE (7)

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 現在のバレーボール男子代表で、大きな期待と注目を集めている20歳の西田有志。そのバレー人生を辿る連載の第7回は、初の日本代表での戦いを振り返る。

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 海星高校3年時の2018年1月に、ジェイテクトSTINGSで鮮烈なVリーグデビューを飾った西田は、卒業後の同年4月にシニアの日本代表に初招集された。

日本代表での最初の背番号は

「32」だった西田

 photo by Sakamoto Kiyoshi

 2016年のリオ五輪後、代表監督に就任した中垣内祐一は、得点力の高いオポジットを求めていた。2008年の北京五輪からそのポジションを担ってきた清水邦広(パナソニックパンサーズ)が、度重なるケガで代表を離れていたためだ。

“ポスト清水”として、バルセロナ五輪代表メンバーである大竹秀之の長男で、当時中央大学4年生だった大竹壱青(パナソニックパンサーズ)が、2017年に国際大会デビューを果たす。さらに、堺ブレイザーズのミドルブロッカー・出耒田敬も、筑波大学時代の経験を買われてオポジットで起用された。

 しかし、2017年9月のグランドチャンピオンズカップは、エース・石川祐希がケガで離脱したこともあり、5戦全敗に終わった。18歳の西田の抜擢には、中垣内監督の期待の大きさが表れていた。

 当時の西田は、Vリーグの戦いを経ての自身の成長について次のように語っている。

「考え方が変わりましたね。高校までは『自分が思い切りスパイクを決めるだけでいい』と思っていました。でもVリーグに入ってからは、スパイクを打つにしても、どういうコースに打つのか、どうワンタッチをとって外に出すのか、などを考えるようになりました。いろんな1点の取り方があると思えるようになったところが、成長したと思います」

 いきなりシニア代表に選ばれたことについては、「驚きしかなかった」という。

 西田はユース時代、アジア選手権では出場機会に恵まれず、世界選手権でメンバー落ちした悔しさから、「ほかのユースの人たちより早くシニアに行く」という目標を立てていた。そのための努力は惜しまなかったが、「まずはジュニアからだろう」と思っていたため、”飛び級”でシニアに選ばれることは予想していなかった。

 初めてシニア代表で練習を行なった西田は、第一印象が「話しやすい人でした」という中垣内監督について、「現役時代、自分と同じポジションで活躍された方ですし、いろんな視点からアドバイスをしていただいています」と笑顔で語った。

 一方の中垣内監督は、「将来的には、西田にはサーブレシーブもできるポジションでプレーしたほうが、可能性は広がると思う」とコメント。それを直に伝えられたという西田は、「期待してもらえているということ。スタッフの方たちが思っている以上の選手になりたい」と意欲的だった。

 そんな西田のシニア代表デビューは、2018年5月25日、フランスのルーアンで行なわれたネーションズリーグ初戦。そのオーストラリア戦でスタメンに名を連ねると、4セットフルに出場して15得点を挙げた。

 同じくその試合にスタメン出場した柳田将洋は、今年5月に西田と行なったインスタライブで、「あの時の西田、試合前にめちゃくちゃ緊張してたよな(笑)」と当時を振り返った。西田も「いやー、かなり緊張しましたね」と苦笑して認めたが、試合が進むにつれてエンジンがかかり、セットカウント3-1の勝利に貢献した。

 大会2戦目のフランスとの試合は大竹が先発だったが、第1セットで大きくリードされた時点で西田に交代。試合には敗れたものの、やはり15得点を記録した。

 5週にわたって行なわれるネーションズリーグは、1週間で3試合をこなしながら世界各国を移動する過酷な大会。中垣内監督は疲労を考慮して選手を入れ替えながら戦ったが、オポジットは西田の起用が多くなっていった。

 大阪市立中央体育館で開催された第3週の「日本ラウンド」は、ブルガリア、ポーランドにストレートで敗れた後にイタリアと対戦。フル出場した西田は、サービスエース3本を含む24得点を挙げ、両チーム合わせてのベストスコアラーに輝き、チームはフルセットで勝利した。

 イタリアのジャンロレンツォ・ブレンジーニ監督は、試合の途中から、西田のサーブ順が来たタイミングでタイムアウトを取るようになった。試合後の会見で、ブレンジーニ監督は「彼のサーブは注意が必要なので、少しでもプレッシャーを与えたかった」と理由を明かした。

 それを聞いた西田は「光栄ですね」と胸を張った。敵将も警戒した新人サウスポーの活躍で、日本はフルセット勝ち。この時のイタリアはベストメンバーではなかったが、世界選手権を3連覇したことがある強豪を相手に、11年ぶりの勝利を飾った。


背番号を「11」に変えて臨んだ世界選手権でも活躍

 photo by FIVB

 結局、日本は6勝9敗の12位で大会を終えた。国際大会デビューの大会として十分すぎる働きをした西田だったが、日本ラウンドの後に体調を崩してベンチ入りもできなかった試合もあったため、「体調を崩したり少しでも調子を落としたりしたら、すぐにポジションを奪われる。コンディションを整え続けることの大切さを痛感しました」と気を引き締めた。

 続く8月の日韓親善試合では、背番号が「32」から「11」に。かつては柳田や石川もつけていた番号で、西田も「いい背番号をいただいた」と喜んだ。そして迎えた9月、イタリアとブルガリアの共同開催による世界選手権に臨んだ。

 第1ラウンドの初戦、日本は開催国イタリアとの開幕試合を、バレー界では異例となる屋外の競技場で戦った。しかし筆者が前日練習の取材に訪れた際、西田はボール練習に参加せず、トレーナーとともに観客席を軽くウォーキングしていた。

 翌日の試合にも西田は出場せず、チームは完全アウェーの中でストレート負け。別調整の理由は軽い足のケガだったそうで、間もなく回復したようだが、当時の西田は「あんな場所で試合をやれるなんて、一生に一度あるかどうか。そのタイミングでケガをしてしまった自分に腹が立ちました」と口をとがらせた。

 その開幕戦は1試合だけ前倒しで行なわれたため、2試合目のドミニカ戦まで中3日空いたこともあり、西田はその第3セットからコートに復帰。チームはストレート勝ちを収めたが、続くスロベニア戦、西田がスタメンに復帰したベルギー戦も敗れて1勝3敗となった。

 第2ラウンド進出のためには、5試合目のアルゼンチンに3-0か3-1で勝利することが必須となったが、第3セット終了時にセットカウント1-2とされた時点で可能性がなくなった。それでも西田個人は好調で、サーブやスパイクで得点を重ねていく。その姿に、メディア席にいたアルゼンチンの記者たちが「ユウジ? ユウジ・ニシダ」と名前を確認しながらメモを取っていた。

 世界選手権1次ラウンド敗退で、西田の代表初年度は幕を閉じた。ケガもありながら高卒ルーキーの日本代表として輝かしいデビューを飾ったが、世界選手権のアルゼンチン戦後には厳しい表情でこう述べた。

「正直、第1次ラウンドを抜けることができなかったのは、ダメだったと思います。自分も大会を通してミスが多かった。ケガは言い訳になりません。ここ一番にピークを持ってこないといけなかった。でも、課題も明確になったので、次に活かしたいです」

 18歳だろうが、ルーキーだろうが、日の丸を背負う重みは変わらない。すでにその覚悟ができていた西田は翌年、より大きなインパクトを世界に与えることになる。

(第8回につづく)