SC相模原・稲本潤一インタビュー@中編 驚きのニュースがもたらされたのは、日韓ワールドカップを1年後に控えた2001年のこと。ガンバ大阪に所属する稲本潤一がイングランドの名門、アーセナルに移籍することが発表されたのだ。「SC相模原・稲本…

SC相模原・稲本潤一インタビュー@中編

 驚きのニュースがもたらされたのは、日韓ワールドカップを1年後に控えた2001年のこと。ガンバ大阪に所属する稲本潤一がイングランドの名門、アーセナルに移籍することが発表されたのだ。

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稲本潤一にアーセナルへ移籍した時の心境を聞いた

 まだ海外移籍が今ほど盛んではなかった時代である。三浦知良、中田英寿らがすでに海を渡っていたとはいえ、彼らの最初のステップはイタリアの小さなクラブにすぎなかった。

 ところが、稲本がオファーを受けたのは「超」が付くほどのビッグクラブ。しかも当時のアーセナルは、飛ぶ鳥を落とす勢いのアーセン・ベンゲルのもとで無敵を誇っていた頃である。

 日本人が世界のトップレベルでプレーする日が訪れるとは想像もつかなかった時代に、当時21歳の若者がその挑戦権を手に入れたのだ。

 当時の状況を、稲本は次のように振り返る。

「海外移籍を本気で考え始めたのは2000年くらいですね。それで、代理人をつけてチームを探してもらっていたなかで、2001年のコンフェデレーションズカップのパフォーマンスをベンゲルさんが評価してくれて。

 実は当時、アーセナルのほかにもイタリアのクラブから話をもらっていました。ですが、何も考えずにアーセナルに行くことを決めました」

 高校生の時にJリーグデビューを果たした稲本にとって、海外移籍を求めるのは自然の流れだった。

「日本でやることがなくなったというか、代表にも選ばれて五輪にも出て、次のステップを考えた時に『海外でプレーしたい』と思うようになりました。きっかけは1999年のワールドユースですね。レベルの高さを知ったのに、日本でやっていたら自分の伸びしろが小さくなるなと感じていました」

 ワールドユースで準優勝を成し遂げ、シドニー五輪にも出場。日本代表でも主軸となりつつあった稲本は「やれる」という自信を胸に、意気揚々とイングランドへと旅立った。

 しかし、待ち受けていたのは、残酷なまでの現実だった。

「それこそ若い時から代表に入ってましたし、自信たっぷりで行ったんですが、アーセナルのレベルの高さに、その自信は全部なくなりました(笑)。挫折というか、トップ・オブ・トップをいきなり見てしまった感じですね。

 後々振り返ればいい経験でしたけど、その1年に関して言えば、ほとんどあきらめていました。シーズン後にワールドカップ(日韓大会)があるから、コンディションだけは保っておこうと思ってましたけど、チーム内の競争に勝とうという気持ちは徐々に薄れていきました」

 レベルの違いに愕然とし、培ってきた自信は木っ端みじん打ち砕かれた。

 この年アーセナルは、プレミアリーグとFAカップの2冠を達成。稲本はリーグカップ2試合に出場したのみに終わり、翌年、同じプレミアリーグのフルアムに移籍する。以降、アーセナルでプレーする機会は訪れなかった。

 それでも稲本は、海外でプレーを続ける道を選択した。フルアム、WBA、カーディフ・シティと渡り歩き、その後、トルコ(ガラタサライ)、ドイツ(フランクフルト)、フランス(レンヌ)でもプレー。9シーズンにわたって欧州にとどまり続けたのだ。

「なかなか行けるチャンスがないなかで、すぐに日本に帰るのはもったいないと思っていました。最悪、日本のどこかのチームが取ってくれるだろうという思いもありましたけど、海外でオファーがあるかぎりは、そこでやり続けようと考えていました」

 もちろん、オファーがあったことが長く欧州にとどまれた要因だが、欧州でプレーし続けるにはメンタル面も重要だったと振り返る。

「寂しがり屋は無理ですね(笑)。ずっとひとりでいないといけないし、生活するうえで、細かい部分でのストレスも当然ある。それが耐えられない人は難しいでしょう。

 言葉も通じず、友だちもいない。イチから人間関係を構築する必要もある。その難しさは間違いなくあると思います。当時ネットはダイヤル回線だったし、電話代も高い。ましてや、スマホなんてありませんでしたからね」

 稲本自身も決して語学は堪能ではなく、コミュニケーションに苦労することも多かった。そんななか、生活の支えになっていたのは、やはりサッカーだったという。

「言葉は通じないけど、2カ月もすれば慣れてくる。もう、しゃべれないのは、どうしようもないんですよ(笑)。でも、サッカーがあれば大丈夫でしたね。純粋にボールを蹴っているのが楽しかったですから。語学留学だったら、たぶん無理だったでしょう」

 2010年、稲本は川崎フロンターレからオファーを受け、帰国を決断する。

 一方、稲本の帰国とほぼ同じタイミングで、日本から海外移籍する選手が急増していった。さらに近年では、イタリアやドイツといった主要国だけでなく、オランダ、ベルギーといった国へ旅立つ選手も増加した。

 自身がアーセナルに移籍してから19年。現在の状況を、海外組の先駆者である稲本はどう感じているのだろうか……。

(後編に続く)

【profile】
稲本潤一(いなもと・じゅんいち)
1979年9月18日生まれ、大阪府堺市出身。1997年、ガンバ大阪の下部組織からトップチームに昇格し、当時最年少の17歳6カ月でJリーグ初出場を果たす。2001年のアーセナル移籍を皮切りにヨーロッパで9年間プレーしたのち、2010年に川崎フロンターレに加入。その後、北海道コンサドーレ札幌を経て、2019年よりSC相模原に所属する。日本代表として2000年から2010年まで82試合に出場。ポジション=MF。181cm、77kg。