サッカー名将列伝第3回 フランシスコ・マツラナ革新的な戦術や魅力的なサッカー、無類の勝負強さで、見る者を熱くさせてきた、サッカー界の名将の仕事を紹介。第3回はフランシスコ・マツラナを紹介。当時ミランと同じプレッシング戦術を機能させ、技巧派の…

サッカー名将列伝
第3回 フランシスコ・マツラナ

革新的な戦術や魅力的なサッカー、無類の勝負強さで、見る者を熱くさせてきた、サッカー界の名将の仕事を紹介。第3回はフランシスコ・マツラナを紹介。当時ミランと同じプレッシング戦術を機能させ、技巧派の選手も重用しながら魅力的なコロンビアサッカーを築いた監督だ。

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<1989年のミラーゲーム>

 新戦法ゾーナル・プレッシング(日本ではゾーンプレスと呼ばれた)の下、1988-89シーズンにヨーロッパ王者となったミラン(イタリア)は、89年のインターコンチネンタルカップ(トヨタカップ)で、南米王者のアトレティコ・ナシオナル(コロンビア/当時日本では「ナシオナル・メデジン」と呼ばれた)と対戦した。



80年代後半から90年代のコロンビアサッカーをつくり上げたマツラナ監督

 延長戦の末、アルベルゴ・エヴァーニのFKからの1点でミランが勝利している。ミランのアリゴ・サッキ監督は試合後、

「ミラーゲームだった」

 と、話していた。両チームのプレースタイルは鏡に映したように似ていたのだ。

 87年の夏にサッキがミランの監督に就任し、最初のシーズンでスクデットを獲り、次のシーズンでチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)を制した。東京・国立競技場で行なわれた89年12月のトヨタカップは、サッキ監督のミランでの3シーズン目である。

 サッキ自身、最初のシーズンからまったく新しい戦術を機能させているので、コロンビアのチャンピオンがコピーしようと思えば不可能ではなかったかもしれない。しかし、実際にはそうではない。

 アトレティコ・ナシオナルの監督にフランシスコ・マツラナが就任したのは87年だ。国内リーグを制し、コパ・リベルタドーレスに優勝。89年のトヨタカップに至る経緯はサッキと同じである。

 さらにマツラナはコロンビア代表監督も兼任していて、87年のコパ・アメリカではアルゼンチンを破って弱小だったコロンビアを3位に導いていた。そして、驚くべきことに監督業を始めたのは86年。トヨタカップの時点で3年が経過していたにすぎない。

 監督になる前のマツラナは歯科医だった。

<奇才デレオンの戦術を受け継ぐ>

 マツラナはプロのサッカー選手としてプレーする傍ら、歯科医の仕事もつづけていた。82年に現役を引退し、歯科医に専念するつもりだったが、アトレティコ・ナシオナルの監督だったルイス・クビジャの勧めでウルグアイへ指導者として研修に赴くことになる。この時に出会ったのがホセ・リカルド・デレオンである。マツラナにプレッシングを伝授した人物と言っていいだろう。

 デレオンは60年代にウルグアイのクラブチームを率いていた。当時のメディアの評価は「ウルグアイサッカーの破壊者」「アンチ・フットボール」だ。彼の著書である『私の革命』のサブタイトルが「アンチ・フットボールか完全なフットボールか?」になっているのは、それだけ物議を醸した監督だったということだ。のちに再評価され、現在では「トータルフットボールの先駆者」と呼ばれている。

 デレオンはバスケットボールの経験があり、それをサッカーに応用したという。「バスケボリザール」と呼ばれた守備戦術は、サッキが開始したゾーナル・プレッシングそのままだったようだ。デレオンが浅いラインディフェンスとゾーンによるプレッシングを始めたのとほぼ同時期に、リヌス・ミケルスはオランダで「ボール狩り」というゾーナル・プレッシングの基となった守備戦術で注目されていた。

 ただ、ミケルスのボール狩りはボールへのプレスと周辺へのマンツーマンディフェンスなので、そこがデレオンとは違っている。つまりヨーロッパを驚愕させたサッキの新戦術は、すでに30年前にウルグアイで行なわれていたということなのだ。

 おそらく、あまりにも早すぎたのだろう。だから「アンチ・フットボール」としか評価されなかった。その埋もれていた宝を、コロンビアから来た歯科医が掘り起こした。マツラナは直接デレオンには会っていない。しかし、デレオンの弟子たちとコンタクトをとり、デレオンに電話で質問することもたびたびだった。

 現役時代、センターバックとしてマークとボールを蹴り返すだけのプレーに飽きて引退したマツラナにとって、デレオンの戦術は導きの光だったといえる。マツラナは「コロンビア人のためのサッカー」を創造するためのカギをウルグアイで拾ったのだ。

<コロンビア人のためのサッカー>

 コロンビアに戻ったマツラナは、86年にオンセ・カルダスの監督に就任した。前任者がデレオン門下で、マツラナはその後継として指名されたわけだ。ほぼ同時にコロンビア代表のユースチームの監督となり、すぐにA代表監督に昇格している。オンセ・カルダスでのパフォーマンスに相当強烈な印象があったのだろう。

 翌87年にアトレティコ・ナシオナルの監督に就任。そこからアトレティコ・ナシオナルとコロンビア代表の快進撃が始まっている。マツラナの念願はコロンビア人のためのサッカーを取り戻すこと。それが一気に実現したのが監督就任からの3年間だった。

 コロンビアは南米の弱小国だった。62年チリ大会に1回出場しただけ。グループリーグで敗退しているが、その時にソビエト連邦と引き分けたのが唯一の誇りだった。ただ、50年代には非常に華やかな時代があり、マツラナが再興したかったのはその一時期のコロンビアサッカーである。

 1949-54年の5シーズン、コロンビアリーグは「エル・ドラド」(黄金郷)と呼ばれていた。FIFA未公認の海賊リーグ。それゆえに高額のサラリーに惹かれて世界中からスター選手が集まっていた。

 アルゼンチンからは50年代のスーパースター、アルフレッド・ディ・ステファノや元祖「偽9番」のアドルフォ・ペデルネーラ。マンチェスター・ユナイテッドで「フェイマス・ファイブ」を形成したチャーリー・ミッテン、50年W杯で優勝したウルグアイ代表メンバーなど、オールスターリーグだったのだ。そして、外国人スターに負けないコロンビア人の名手たちも活躍していたという。

 エル・ドラドが短期間で崩壊すると、その後のコロンビアはアルゼンチンの影響下に置かれた。アルゼンチンの高名な監督が指導し、プレースタイルからサッカー用語、応援歌に至るまでアルゼンチン式。ただ、厳重なマンマークとカウンターのスタイルはコロンビア人が本来持っている資質とは違うのではないか--それがマツラナの疑問だった。

 本来持っていた技巧を生かす攻撃サッカー、華やかだったエル・ドラドの時代の再現、そのためにはまずボールを奪う方法を変える必要があった。

「我々のサッカーで重要なのはボールだ。すごく走っているように見えたかもしれないが、6、7人がいっせいにアクションを起こしているのでそう見えるだけで、ひとりが動いている距離は10メートルなのだ」(マツラナ)

 デレオンのゾーナル・プレッシングを発掘したマツラナ監督は、同時にカルロス・バルデラマやフレディ・リンコン(共に90年、94年、98年W杯出場)といった技巧派を重用し、最新鋭の先進性と古典的な技巧を融合させた。

コロンビアの人々が心から楽しめる、なおかつ強力なサッカーをつくり上げた。

フランシスコ・マツラナ
Francisco Maturana/1949年2月15日生まれ。コロンビア・キブド出身。現役時代はアトレティコ・ナシオナルを中心にDFとして活躍。86年に監督業をスタートさせると、トヨタカップに出場したアトレティコ・ナシオナルや、90年、94年W杯のコロンビア代表を指揮し、注目を集めた。その後もスペインや中南米で、クラブチームや代表チームのコーチ、監督をつづけている。19年はコパ・アメリカを戦うベネズエラ代表のテクニカルアドバイザーを務めた