私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第15回
初めての日本代表で経験した「ドーハの悲劇」~ 三浦泰年(2)

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 1993年、アメリカW杯アジア最終予選、日本は初戦のサウジアラビア戦を0-0のドローで終えた。勝ち点1を獲得し、日本も三浦泰年もまずまずのスタートを切った。

 2戦目のイラン戦も三浦は左サイドバック(SB)でスタメン出場した。


2戦目のイラン戦では悔しい思いをした三浦泰年

 photo by Hara Etsuo/Getty Images

 イランは、日本をよく研究していた。攻撃の軸となるラモス瑠偉を徹底的にマークし、脅威となっていた左サイドの攻撃を封じてきた。三浦は人数を割いて分厚い攻撃を仕掛けてくるイランの対応に追われた。日本は押し返そうとしたがイランに主導権を握られ、前半終了間際、フリーキックから先制点を許してしまった。

 後半、日本は吉田光範に変えて長谷川健太を右サイドに投入し、森保一を左、ラモスを中央、福田正博を右に置いて、4-3-3の攻撃的なシステムに変更した。それでもゴールが遠いと見ると後半29分、オフトは左サイドバックの三浦に代えて中山雅史を投入し、3-4-3にシステムを変更した。

 ここで三浦の仕事は終わり、悔しさを噛み締めながらピッチを去った。

「ゴンと代わった時は、みんなに申し訳ないという思いしかなかったですね。いろんな人が左サイドバックの候補に挙がった中で、自分はその最後として起用された。その責任は重大でした。それに、イランは自分の裏(のスペース)を明らかに狙っていた。攻撃している時は自信があったんですけど、イランのボールになった時は完全に後手に回っていたし、きついなって思っていた。僕が監督だったら三浦泰年は使っていなかったと思います」

 三浦はベンチに戻ると代表に呼ばれる前の時のようにドキドキしながら試合を見ていた。その後、イランが追加点を入れ、中山が1点を返したが、そのまま試合は終わった。日本は、イランに2-1で敗れ、2試合で1分1敗、グループ最下位に転落した。

 選手たちは落胆の色を隠せず、チームは沈痛なムードに包まれていた。

 イラン戦の翌日、三浦はオフトの部屋に呼ばれた。

「よくやってくれた。だが、次は(左サイドバックから)外す」

 突然の宣告に、三浦は、静かに頷いてオフトの部屋を出た。

「オフトに『外す』と言われて、まぁ当然の判断だろうって思いましたね。短期決戦で大事な1試合を一つ落としてしまった。メンバーをいじって、ここから立て直していかないといけないので」

 部屋に戻ると、都並が心配そうな表情で三浦を迎えた。

 ドーハのホテルでは2人部屋で、三浦は都並と同部屋だった。都並が持っている左SBのノウハウを三浦に伝えてほしいというオフトの考えがあったからだ。だが、2人はプレーについてはほとんど話をしなかったという。いつも見ていたのは練習後、麻酔が切れてベッドの上で激痛に喘ぐ都並の姿だった。

「あの都並さんがあれだけ痛がっていたので、相当な痛みだったと思います。それでも練習に出るために痛め止めを打って、最後まであきらめずに試合に合わせていこうとしていた。そういう姿を間近で見ていたので、なんとか都並さんのために1試合でも多く試合に出て、期待に応えたかったんですけど……。それができず、本当に悔しくて、申し訳ない気持ちでいっぱいでした」
 
 その日の練習から左サイドバックには勝矢寿延が入った。

 左SBの任を解かれた三浦は、自分の中に燻ぶった感情があることに気がついていた。オフトに「外す」と言われた時、黙って部屋に戻るのではなく、言うべきことがあったはずではと思っていたのだ。

「オフトに『外す』と言われた時、僕がチームの力になれるのは、ボランチとしてプレーすることだけだった。初めて代表に呼ばれて行った紅白戦ではボランチでプレーして、レギュラー組を相手に5-0で勝った。それをちょっとでも覚えていてくれたらなぁって思いましたけど、選手であれば自分ができることを言うべきでしたね。ボランチで使ってくれって。でも、僕は言わなかった。それが自分の中でモヤモヤしたものになっていました……」

 それでも、練習後は毎日、ホテル内にあるジムに通った。もしかしたらどこかで使われる可能性があるかもしれないと思い、その準備のため、そして「これからもサッカー人生は続く」と思い、今後のためにトレーニングを続けていたのである。

 北朝鮮戦前夜、チームは活力を取り戻していた。

 イランに敗れた直後は、さすがに選手の表情は暗かったが、いつまでも敗戦のショックに引きずっているわけにはいかない。都並や武田らが余興でチームを盛り上げ、三浦も戦う姿勢を崩さずに保っていた。

「哲さんとか、カリオカとか、僕らよりも上の人が何を考えているのかは分からなかったけど、僕らにはカズがいて、北澤(豪)やゴン(中山雅史)ら最高の仲間がいたので、誰ひとり孤独の中で苦しんでいる感じはなかったです。1分1敗で追い込まれたけど、あと3試合全部勝てばいいんでしょ。そういうシンプルなイメージでいた」

 1993年10月21日、北朝鮮戦は、スタメンの顔ぶれが大きく変わった。

 累積警告で出場停止の高木琢也に代わって中山雅史、そして不調の福田に代わって長谷川が出場し、左SBには勝矢が入った。4-3-3のシステムと彼らの活躍が功を奏し、3-0で北朝鮮に勝った。そして、その勢いのまま韓国に1-0で勝利した。この2試合で救世主のような活躍を見せたのが、中山だった。



27年の月日を経て、ドーハの悲劇について語った三浦泰年

「ゴンは2歳年下だけど、仲がよかった。バスではいつも隣に座って、『この曲いいぜ』ってウォークマンを一緒に聞いたりしていた。だから、ゴンの活躍はうれしかったですね。でも、最終予選が始まった時のゴンは、まだスーパーなゴンじゃなかったんですよ。イラン戦ではベンチで隣にいたけど、ちょっと緊張していて、出場するとき、『大丈夫だから』って声をかけたぐらいだった。

 でも、北朝鮮戦で難しいゴールを決め、韓国戦も点を決めたのはカズだけど、絡んだのはゴンだった。最終予選前は高木と福田がレギュラーの鉄板だったけど、短期決戦では新しい選手が出てこないと勝てないと思っていた。そこに健太とゴンが出てきて、いい仕事をした。勝ち方もよかったし、チームがグっと盛り上がった」

 三浦は、この時、W杯への道がハッキリと見えたという。

 1993年、10月31日、イラク戦が始まった。

 前半5分、カズの先制ゴールで試合が動いた。イラクは日本の先制パンチに目が覚めたか、すぐに攻撃のアクセルをベタ踏みし、圧力をかけてきた。

「かなり強いな」

 三浦はこれまでの対戦相手にはない攻撃の迫力を感じたという。

 後半19分に同点に追いつかれたが、後半24分に中山がゴールを挙げて、2-1とリードした。だが、イラクの攻撃の勢いは止まらない。ピッチ上のラモスからは「北澤!」という声が響いていた。イラクの猛攻を抑え込むには中盤に人数が足りないので、動き回れる北澤を入れてほしいとラモスが要求したのだ。三浦は、ラモスの声を聞いて、もしかしたら自分にも出場のチャンスがあるかもしれないと思っていた。

「中盤の人数が足りないのであれば、自分にもチャンスがある。自分を出してくれ、アメリカに行かせてやるよって思っていました」

 後半36分、オフトは3枚目のラストカードを切った。

 呼ばれたのは三浦でも北澤でもなく、武田修宏だった。中山との交代になったが、中盤ではなく、前線の選手を入れ替えた采配を見て、三浦は「オフトは欧州の監督だな」とあらためて感じたという。

「ブラジルだと、あの時間、守備的なMFか、センターバックを入れる。でも、オフトは前で走れなくなった選手を入れ替えて前で守備をさせる選択をした。それは欧州的な発想なんです。僕は、ブラジル留学していたので時間の使い方を学んでいた。相手ともめたり、大袈裟に痛がったり、倒れたり、みんな南米のそういうプレーを嫌うけど、マリーシア(狡猾さ)は勝つためには必要なこと。それをあのチームで知っていたのはカリオカと僕とカズだけだった。だから、自分を使ってほしかった」

 フレッシュな武田は前線で動き回った。

 後半44分、ラモスからのリターンを受けた武田は右サイドをドリブルして上がり、キープせずに、そのままゴール前にセンタリングを上げた。

「何やってんだ」

 ベンチに座っていた三浦は立ち上がり、憮然とした表情で武田に視線を送った。

「あの時間帯で、あんなに簡単にセンタリングを上げるのは信じられなかった。あそこは絶対にキープして、時間を使うべきところ。そういう選択ができる選手じゃなきゃいけない。タケには申し訳ないけど、僕が監督だったら『お前はプロじゃない。素人だ』と言ってしまったかもしれない。大事な国際試合で大きな判断ミスをすれば、勝てたはずの試合も勝てないので」

 武田のセンタリングは精度が足りず、ボックス内に入ったカズに届かなかった。流れたボールはイラクに渡ったが、森保一が詰めてボールを奪い返した。武田のミスを帳消しにしたのだ。森保は、すぐにラモスにボールを預けた。

 後半44分、この時、ピッチの選手もベンチの三浦も、そしてオフトも「勝てる」と信じていた。

(つづく)