フィギュアスケートファンなら誰もがあるお気に入りのプログラム。ときにはそれが人生を変えることも--そんな素敵なプログラムを、「この人」が教えてくれた。私が愛したプログラム(3)八木沼純子(解説者、キャスター)『カルメン』カタリーナ・ヴィッ…
フィギュアスケートファンなら誰もがあるお気に入りのプログラム。ときにはそれが人生を変えることも--そんな素敵なプログラムを、「この人」が教えてくれた。
私が愛したプログラム(3)
八木沼純子(解説者、キャスター)
『カルメン』カタリーナ・ヴィット
私のお気に入りのプログラムは、小さい頃から憧れていたカタリーナ・ヴィット選手が1987年-88年シーズンに演じたフリーの『カルメン』です。ダイナミックで華やかな『カルメン』は、未だ色褪せることなく私の中に強く残っています。当時は東ドイツのスケーターとして競技会に出場していたヴィット選手の素敵なプログラムのひとつです。
カルガリー五輪で金メダルを獲得したカタリーナ・ヴィット
採点方法が現行ルールとは違うので、いまのファンの皆さんが見ると物足りなさはあるかもしれません。それでも、元選手として、あのカルガリー五輪の場で見て感じた者としてお話しさせていただければ、ひとつの物語として構築された世界観であり、カタリーナ・ヴィットのあの当時の個性を生かした『カルメン』を作り上げ、あの時勝つための計算された内容だったと思います。それを見事なまでに踊り、滑りきったことで、完成されたプログラムとして、踊り手と作り手の思いが凝縮された作品になっていたのではないでしょうか。
あの当時、氷の上に寝そべることは、確かにNGでした。それをヴィット選手は、『カルメン』のフィニッシュを、寝そべって終わらせていた。物語上、男性に刺されて死に絶えるという場面を、舞台上で演じるように、氷上にその場面を投影させた終わり方でした。ジャッジ側からの減点はあったかもしれません。
ヴィット選手には、「私のカルメンの世界はこうだ!」という、誰にも譲らない、確固たるそれまで培ってきた自信と強さ、そして艶やかさがありました。
振付師も、より演劇に近いつくり方をしていたのではないかと思います。演出や4分間をカルメンとして自由奔放な魔性の女性の生き方が終わりにも表れ、よりドラマティックな効果がありました。24歳のヴィット選手が演じた『カルメン』は、そういった意味でもとても印象に残っています。
トリプルジャンプを5種類跳んだりすることはないし、3+3の連続ジャンプは入れていません。でも、曲全体の作り方や演技構成の起承転結といいますか、最初に鐘の音から始まり、物語が展開されていって、最後はホセに刺されて氷上で花が散るように終わっていく。
そのプログラムの作り方と音楽の構成が、あの当時まだ10代だった私には印象が強く、だからこそ、いまでも心の中に残っているのではないかなと思います。
このプログラムには、いろんな話題もありました。カルガリー五輪シーズンは、ヴィット選手と金メダルを争った米国選手のデビー・トーマス選手も同じ『カルメン』の曲を使っていました。
普通ならライバルと同じ曲は避けるところを、敢えて同じ曲で対決するという対抗心は、ある意味、すごいですが、それぞれ音の構成も魅せ方も違う。表現力に定評のあるヴィット選手も、しなやかなスケーティングとジャンプが得意だったトーマス選手も、それぞれが勝てる自信と計算があったからこそ、同じ『カルメン』で戦ったのだと思います。
ただ、オリンピック本番での3日間の試合を通した強さを比較すると、最後のフリーでのここぞという強さを、カタリーナ・ヴィットは持っていたのではないでしょうか。フリーの滑走順はヴィット選手よりもトーマス選手があとで、ショートプログラム1位のトーマスはそのまま勝ち逃げるチャンスも残っていましたから。
ヴィット選手の『カルメン』の振り付けは、演技が始まる最初のポーズから好きでした。戦いに挑んでいくアスリートなのですが、音が鳴った途端、カルメンになりきった表情とポーズが、音楽と調和されヴィット選手のカルメンの世界にいざなってくれているようで、振付ももちろんですが、本当に自然に「カタリーナ・ヴィットがカルメンだったらこうするだろうな」という空気感を纏っていました。
彼女のどのプログラムでもそうでしたが、この『カルメン』は「私が女王」というその存在感に、鳥肌が立つほどでした。当時から衣装などヴィットスタイルが際立っていましたが、衣装からヘアスタイルまで、トータルコーディネートも凄かった。衣装のデザインも当時のフィギュア界では個性的だったと思います。
あるとき、『カルメン』を「どういう思いで滑っているのか?」というインタビューを受けていたヴィット選手は「会場にいる自分の好みの男性(を見つけて、その人)のために滑る」と話していました。
少しニュアンスが違うかも知れませんが、そのコメントを聞いて「フィギュアスケートって奥が深いな」と、当時、10代だった私は思ったものでした。与えられたプログラムを正確に音に合わせて滑れるかどうかの戦いしかしたことがなかった14歳の私には、そこまで考える想像力はまだまだありませんでした(笑)。
曲やストーリーを解釈して、どう表現すればいいのかを掘り下げながら演じ、自分自身がカルメンになるために、カルメンとしてどう発言するかまでも作り込んでいたのではないかと感じてしまう彼女の『カルメン』は、強烈でした。
カタリーナ・ヴィット選手は、勝つために強くあらねばならず、常にそう育てられてきたのではないかと思います。
当時、東ドイツやソビエト連邦といった共産圏の国では、国がサポートして選手を育成し、五輪や世界選手権で金メダルを取ることを目的として育て上げられてきた選手が多かったのではないでしょうか。いかに強い自分でいるか、試合で勝つためにどう強くあるべきかを、幼少の頃から叩き込まれていた人たちではないかな、と。大事な場面でいかに実力を発揮していくかという観点が、他の国の選手とはまた違ったと思います。
勝つという目的を達成するために、いろいろなものを犠牲にしてきたかもしれません。ですが、自分の個性をわかっていて、それを最大限発揮して体現できるスケーターのひとりだったと思います。彼女が滑っているだけでスポットライトがずっと当たっているような、華やかなオーラをまとっていた。私の中ではそう見えていました。
カルガリー五輪では、公式練習が一緒だったヴィットさんばかり見ていて、先生に怒られたほどです。サラエボとカルガリーでオリンピック2連覇し、世界選手権でも4度タイトルに輝き、すばらしい成績を残しています。
もうひとつ紹介したいのは、同じくカルガリー五輪のアイスダンスで金メダルを取ったナタリア・ベステミアノワ&アンドレイ・ブーキン組(ソ連)が演技したオリジナルセットパターンダンスの『タンゴ』です。炎の燃え上がるような、鬼気迫る、迫力満点の格好いいアイスダンスだったのが、印象に残っています。
なぜ、あれほどのすばらしい演技が生まれたのか。その背景には、前回大会のサラエボ五輪で、伝説のプログラムと言われる『ボレロ』を踊ったジェーン・トービル&クリストファー・ディーン組との金メダル争いに敗れて銀だったことがあります。その後は世界選手権ですべて金メダルを獲得。満を持してやってきたカルガリーの演技は、「必ずや金メダルを自分たちの手に!」という熱い気迫が感じられました。
いまカルガリー五輪を振り返ってみると、シングルはじめ、4種目ともに、ダイナミックで華やかな技巧派の選手が多かったように思います。
八木沼純子
1973年4月1日、東京都生まれ。世界ジュニア選手権で準優勝すると、14歳でカルガリー五輪に出場した。その後は全日本選手権準優勝、世界選手権11位など。1995年、プロに転向。解説者、キャスターとしても活動中。