あのブラジル人Jリーガーはいま第6回カレッカ(前編)>>後編を読む 今から3年ほど前、FIFAのインタビューでディエゴ・マラドーナは「自身のサッカー人生のなかで最高のチームメイトとは誰か?」と聞かれた。それに対してマラドーナはひと言、「アン…
あのブラジル人Jリーガーはいま
第6回カレッカ(前編)>>後編を読む
今から3年ほど前、FIFAのインタビューでディエゴ・マラドーナは「自身のサッカー人生のなかで最高のチームメイトとは誰か?」と聞かれた。それに対してマラドーナはひと言、「アントニオ」とだけ答えた。
アントニオとは、アントニオ・デ・オリヴェイラ・フィーヨのこと。一般的にはカレッカと呼ばれている人物である。マラドーナはいつも彼のことをアントニオと呼び、そしてカレッカはマラドーナのことをディゴと呼んでいた。
1987-88から6シーズン、セリエA・ナポリでプレーしたカレッカ photo by Yamazoe Toshio
マラドーナとカレッカは厚い友情で結ばれている。
1987年、カレッカは強豪サンパウロでプレーし、ブラジルサッカー界きってのスターだった。年間最優秀選手に輝き、得点王も獲得していた。
そんな彼にレアル・マドリードが700万ドル(当時のレートで約10億円)のオファーをしてきた。しかし彼はそれを断り、その半分の値段でナポリに移籍した。
当時のナポリにはマラドーナがいたからだ。カレッカはマラドーナのことをペレ以降最高の選手と思っていた。そして、彼は金よりもマラドーナとプレーすることを選んだのである。
「我々は4年間ともにプレーし、多くのゴールを決め、勝利を手にし、ナポリの英雄となった。私と彼はサッカーの歴史に残るコンビだったと思う。他のチームと契約していたら、このチャンスは訪れなかっただろう。ディエゴとともにプレーした時間は金では買えないものだった」
この頃のナポリのことを、皆が「MAGICA(マジカ)」と呼んだ。「マジカ」とはイタリア語で「魔法」の意味だ。マラドーナのMA、ジョルダーノ(ブルーノ・ジョルダーノ、元イタリア代表FW)のGI、カレッカのCAをとってのネーミングだが、本当にこの時代のナポリは魔法のようなチームで、人々に夢を見させてくれた。
1988-89シーズン、彼らはナポリ史上唯一の国際タイトルをチームにもたらしている。
UEFAカップ(現在のヨーロッパリーグの前身)決勝シュツットガルト戦。ホームでの1戦目では2-1で勝利し、マラドーナとカレッカがゴールを決めた。アウェーでの2戦目は3-3で引き分けたものの優勝。タイトルを決定づけたこの試合の3点目はカレッカの足から生まれていた。
翌1989-90シーズンにはナポリに二度目のスクデット(セリエA優勝)をもたらし、1990-91シーズンには初のイタリアスパーカップを制した。
彼らはナポリに笑顔をもたらした。そして、今でも彼らの思い出はナポリの人を笑顔にする。カレッカとマラドーナが並んでプレーするのを見るのは本当にすばらしかった。彼ほどマラドーナと強く結ばれてプレーできる選手はいなかっただろう。
「ディエゴとはそれまでプレーしたことはなかったが、すぐに息が合った。一緒にプレーした最初のシーズンに私は13ゴールを決め、ディエゴも21ゴール(カップ戦を含む)は決めたはずだ。我々はともにプレーするために生まれてきたようなものだった。
彼の能力、インテリジェンス、テクニックとボールを持った時のスピード、それらをすべて私は瞬時に理解した。彼がピッチでどうやって動くのかも熟知していた。たぶん私たちの最大の強みは、ピッチの中だけでなく、外でも互いを知っていることだった。だから、互いの頭の中がよくわかったのだ」
ナポリ時代のマラドーナはスーパースターだった。どこへ行っても多くの人に囲まれ、家の前にもいつも多くのファンが待ち伏せをしていた。だからマラドーナは落ち着く場所を求めて、よくカレッカの家に逃げてきたという。
「彼はすごく素朴な人間だった」とカレッカは言う。
「ディエゴは私のところに来るのが好きで、よく一緒にバーベキューをした。もちろんブラジル風シュラスコだ。しかしディエゴは、肉ならアルゼンチン風のアサードが一番だと、こんなの本当の肉の食べ方じゃないといつも文句を言っていたよ。その割には、彼は食べる専門で、一度も料理してくれたことはなかったけどね。
カイピリーニャ(ブラジルのカクテル)を飲みながら、私が肉を焼き終わるのを待っているんだが、手持ちぶさたなのか、そのうち酒に入れるレモンでリフティングを始める。私は気がつかないふりをしていたが、少なくとも100回ぐらいは続いていたかな。
それを見ながら、こんなスターが近くにいて、うちに遊びに来ているなんて、信じられないことだと思ったものだ。でも、そんなことは一度も彼には言わなかった。そうでないとディエゴは天狗になってしまうからね」
当時、ナポリの最大のライバルはアリゴ・サッキが率い、マルコ・ファン・バステンを擁するミランだった。
1989-90にミランを抑えてナポリが優勝した時などは、赤と黒のミランカラーの便器を乗せた車が町を走り、葬儀屋はシルビオ・ベルルスコーニ(元ミラン会長)の葬式を出すなど、町中がお祭り騒ぎとなった。
しかし、そんなミランが、そっとカレッカに接触してきたことがあったという。これはかなり後になって彼が語ってくれたことだ。
「きっとこの話を知っている人は少ないと思う。ある時、ミランは私にナポリの年俸の3倍の額をオファーしてきた。
でも私はディエゴと約束していた。彼がナポリを去らない限りは、私もナポリを去らないと。だから私はミランからのその信じられないような額のオファーにもノーと答えなければならなかった。
それから私たちはもう2年をともに過ごした。大金はふいにしてしまったが、そのかわりに私は一生の友人を得た。残念ながら、こういう話は今のサッカー界ではあまり聞かれなくなってしまったね」
その後、マラドーナはカモッラ(ナポリのマフィア)との関係と薬物使用を疑われ、1990-91シーズンを最後にナポリを去った。しかし。カレッカはその後も2年ナポリに残り、マラドーナのかわりに、イタリアのジャンフランコ・ゾーラらとともにプレーした。
マラドーナとは今でも仲がよく、カレッカのブラジルの家にも遊びに来ている。サンパウロから90キロのところにあるカンピナスという町で、引退後も何かとスキャンダルの多いマラドーナは、時にここに雲隠れするために来るという。
ナポリ時代の話ばかりをしてしまったが、カレッカの生い立ちにも少し触れよう。
カレッカとはポルトガル語で"ハゲ"の意味だ。毛量の豊富な彼がなぜそんなニックネームになったのか。カレッカは子供の頃、カレキーニャというピエロの大ファンだった。カレキーニャとは?小さなハゲ"という意味で、ハゲのかつらをかぶっていた。カレッカはいつもカレキーニャのテレビ番組を見ては、彼の歌を歌っていたという。
カレッカの父はガエタ・デ・オリヴェイラ。彼もまたサッカー選手で50年代から60年代初頭までプレーしていた。最初のチームの入団テストにはペレもいて、一緒にプレーしたこともあるという。
「私はそれほど有名にはならなかったが、スタートはかのペレと同じだった」が、父ガエタの口癖だった。そのおかげか息子のアントニオもペレの大ファンであり、彼が所属したサントスのファンだった。
カレッカの父親は優秀な選手だったが、運には恵まれなかった。サッカー人生の最後には、小さなチームのロッカールームで用具係のようなことをしながらプレーしていたという。
カレッカが幼少期を過ごしたのは、サンパウロ郊外のアララクアラという町だ。
「家は部屋がふたつしかない小さなものだった。ひと部屋は家族4人のベッドでいっぱいで、もうひと部屋はキッチン兼居間だった。家にはドアも、窓ガラスもなく、トイレは家から10メートル離れた外にあったので、雨の日にはトイレに行くだけでびしょ濡れになったよ」
母のジザは地元のスポーツクラブで働いていたので、カレッカと兄のパウロはよく母についていき、そこでボールを蹴らしてもらっていた。たまにはテニスのボールボーイの手伝いをすることもあった。
こうして2人は多くのスポーツに親しむことができた。兄のパウロは地元のテニス大会で優勝することもあり、後にプロテニスプレーヤーになっている。
「兄は私以上にサッカーがうまいと言われていたが、なぜかテニスを選んだんだ」
カレッカ少年はサッカーができれば幸せだった。家に帰ってきても時間があれば仲間を集めサッカーをしていた。ボールはレジ袋、裸足で何度も足の爪をはがしたが気にはしなかった。
「母親はいつも、近所の窓ガラスを割らないようにとうるさく言っていたが、それは無理な話だった。いつもどこかの家の窓を割っていたよ」
カレッカの子供の頃の憧れの選手は、ブラジルサッカー史上、最も頭がいい選手と言われるトスタンだった。トスタンは1970年W杯のペレのチームメイトで、背番号9を任されていた。ペレは彼のインテリジェンスによって生かされ、自分のスタイルを見つけたと言っても過言ではない。
トスタンはゴール前でボールを待っているタイプのストライカーではない。カレッカも同じだった。ペナルティエリアから飛び出して中盤に近づき、ボールを受けようとする。そしてひとたびボールを得れば、ゴールへと突進するのだ。
母のジザは息子たちがサッカーに興じるのをあまり快くは思っておらず、「チームのテストに連れて行ってほしい」とせがまれても、いつも、「まずは勉強しなさい」と言っていた。
仕方なくカレッカは勉強したが、それほど熱心ではなかった。そして16歳になると、ひとりでカンピナスにあるグアラニのテストを受けに行き、合格をもらった。
「あの時のことは今でもよく覚えている。1976年1月6日のことだった。グアラニに着いてから、私はスタジアムの中の小さな部屋に連れていかれた。そこには6つの小さなベッドがあって、そこで寝泊まりするように言われた。
私は無性に家族が恋しかったが、故郷の町とは100キロ近く離れていた。それから4週間、チームは私のサッカーに夢中になり、契約を交わしてくれた。でも、私にとってその間は500年にも感じたよ」
(つづく)
カレッカ
本名アントニオ・デ・オリヴェイラ・フィーヨ。1960年10月5日生まれ。グアラニでデビューし、サンパウロを経て1987年、ナポリに移籍。1993年、柏レイソルに移籍すると、チームのJリーグ昇格などに貢献した。その後はサントスなどでプレー。ブラジル代表として1986年、1990年のW杯に出場している。