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 野球界にかかわるさまざまな人々にスポットを当てる連載。今回は、独立リーグ・四国アイランドplusの高知ファイティングドッグスの監督を務めた駒田徳広氏が登場。

 読売巨人、横浜で「満塁男」として活躍し、通算2000安打も達成した名球会人に、独立リーグはどう映ったのか。監督という職業を4年間務めた中で“見つけたもの”を聞いた。

■高知FDの監督として過ごした日々、その役割を終えて

――今季最終戦が9月13日に行われました。今年7月に今季限りでの監督退任を発表し、これで4年間務めた高知ファイティングドッグズの監督として役割を終えましたが、独立リーグの監督を務めた4年間を振り返って、長かったですか? 短かったですか?

駒田 長い短いで言うと、短かったですね。でも、監督として一番に何をやれば良かったのかが分からなかった、というのが今の結論ですね。何故行ったのかと聞かれれば、楽しそうだからということなんですけど、何をすべきだったのか、どうすべきだったのか、というのを最後まで掴み切れなかった。だから辞めたんだと思います。

――監督という仕事に関して、教科書はないですし、独立リーグとNPBの違いを感じることもあったのではと思いますが?

駒田 そうですね。日本での独立リーグの在り方として、どういうものが一番いいのかが分からなかった。NPBにもいろんなスタイル、タイプの監督がいらっしゃいますけど、何が目的なのかというと「勝つこと」です。その上で魅力的な選手が育つことによってファンに愛されて応援に来てくれるというものだと思います。

 じゃあ、独立リーグではというと、「勝つ」ことなのか。だったらもっとガツガツやらないといけない。でもガツガツやったら選手たちはどうなるのか。チームの中には、技術的に高い者も低い者がいるのと同時に、気持ち的にも本気でNPB入りを目指す者もいれば、そうでない者も多い。そこが難しかったですね。

――選手の中には自分の野球人生の最後の節目として、独立リーグでプレーする者もいる?

駒田 そういう選手はいますし、そういう選手の気持ちは分かる。でも、節目という風にも思ってなくて、何となく野球を諦められなくて続けている選手も多い。行く前は正直、選手たちはもっとガツガツしていると思っていた。もっと目をつり上げてやっているんじゃないかと…。

 もちろん一部の選手はそうやっていましたけど、全体の中では決してそうではないんだなという風に感じて、だったらいろんな選手がいる中で監督としてどう指導すればいいのか。もっと厳しく練習すれば、もっと勝てるようになって、もっと選手も育つと思っていたんですけど、そう上手くはいかなかった。今年はどうなるか分かりませんけど、去年までの中ではNPBのドラフトで指名された選手を出せなかったということも自分の中では大きかったですね。

――4年間の中で、1年目から2年目、2年目から3年目と変化があったと思いますが?

駒田 やっぱり1年目は選手たちに対して厳しかったと思いますよ。僕自身も張り切っていたし、勝呂(壽統)コーチも高知に来てくれて非常に厳しくやってくれた。その中でチームの在り方というのが徐々に分かってきた感じがあって、いい形で2年目を迎えられたとは思うんですけど、そこで優勝できなくて(前期2位、後期3位)、その後の3年目、特に4年目というのは苦しいものがあった。

 そこで「独立リーグの役割って何?」って言われたら、「地域の人たちと明るく、楽しく、愛されながらプレーする」ということなんだろうけど、それ以上のことを追求できなかった。自分としてはもっと厳しくやりたかったという気持ちがありますね。

■高知への感謝、四国への思い

――元々、高知という土地に馴染みはあったのですか?

駒田 全然なかったですよ。現役の時もキャンプ地は違いましたから、引退してからも含めて高知には何回かしか行ったことがなかった。でも、日本酒はあんまり飲まないんですけど、お酒は美味しいですし、あとはやっぱりカツオのたたきですよね。ただ、東京に比べると魚の種類が少なかったかな(苦笑)

――本拠地最終戦のセレモニーを見ても、高知の方々、ファンの方々からすごく愛されていたという印象がありますが?

駒田 そうですね。地元の方にすごく歓迎してもらって、大変ありがたかったですね。ファンとの距離感も近くて、楽しくやらせてもらいました。だけど、その一方で監督としての立場があるし、そこのバランスを取るのが難しかった。

 ファンの中には一人の選手を応援しているという方もいて、その選手を「使ってくれ」とお願いされたり、その他にもいろんな意見をもらったりしましたけど、そのすべてに応えることは現実としてできないですし、苦労はしましたね。

――高知ではバー「KOMA’S HOUSE」をプロデュースされて、駒田さん自身がカウンターに立っていた。

―「KOMA’S HOUSE」に関する記事はこちら―

駒田 バーに来てくださる方というのは、野球を愛してくださっていて、僕自身のファンだという方も多かった。ファンの方と話をするのは楽しかったですけど、自分のチームの選手に対して僕自身の意見を聞かれると、やっぱり褒めることばかりじゃないですし、そこがまた難しくて、すごく神経質になった部分ではありましたね。

――ファンの方も含めて、いろいろと話をする中で新たに駒田さん自身の方向性が定まっていった部分はありますか?

駒田 僕自身の方向性というよりも、四国の4つの球団の今後の方向性について、どうやったら盛り上がるのかなとすごく考えましたね。四国にあるリーグとしての独自の在り方、面白さ、野球の在り方、強さを求めていかないといけないという思いは強くなりました。

 例えば高校野球の世界だと、四国の高校は「泥臭くて粘り強い」という色が何となくでもある。じゃあ、「四国アイランドリーグってどんな色?」と聞かれたら、現状は「う〜ん…」ってなっちゃう。

――どんな色にすべきか、それに対しての結論は出ましたか?

駒田 どうでしょう…。「勝つんだ!勝つんだ!」とやろうと思っても、現状ではそこまで厳しくできない。「地域のために」ということばかりをやり過ぎると、ややもすると野球をするボランティア団体になってしまうし、そうなっちゃいけないと思う。

 細かいことは関係なく「勝てばいい」っていう考えもありますけど、僕自身はそれができなかった。4年間監督をした中で、各球団のいろんな方が、いろいろと試行錯誤をしながらやっていますけど、僕も含めて最高の結論には達していないというのが、正直なところかなと思います。

<後編へ続く>
独立リーグ監督として試行錯誤の4年間 駒田徳広が見た四国ILの「現在」と自身の「未来」<後編>

▼プロフィール
駒田徳広(こまだ・のりひろ)/1962年9月14日生まれ、奈良県出身。
桜井商業高ではエースで4番。
1980年秋のドラフトで読売巨人から2位指名を受けてプロ入り。
3年目の1983年にプロ初打席初本塁打を放つと、以降は類い稀な勝負強さと長打力でチームの主力として活躍し、1994年には横浜にFA移籍して「マシンガン打線」のポイントゲッターとして1998年の日本一に貢献。
「満塁男」の異名を取る一方で、ゴールデングラブ賞を一塁手として史上最多の10回受賞。
2000年に通算2000安打を達成して現役を引退。2005年に東北楽天、2009年に横浜のコーチを務め、2016年から4年間、四国IL・高知の監督を務めた。

取材・文/三和直樹