MotoGP最速ライダーの軌跡(2)ニッキー・ヘイデン 上世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えながら振り…

MotoGP最速ライダーの軌跡(2)
ニッキー・ヘイデン 上

世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えながら振り返っていく。2人目は、ニッキー・ヘイデン。世界中のファンを魅了したアメリカ人ライダーが、MotoGP史に残した物語を紹介する。

 ニッキー・ヘイデンがMotoGPの世界に足を踏み入れたのは2003年、21歳の時だ。前年に史上最年少でAMA(全米選手権)スーパーバイクのチャンピオンとなり、将来性を大いに嘱望(しょくぼう)された世界デビューだった。



明るい笑顔で多くのファンらに愛されたニッキー・ヘイデン

 ホンダファクトリーの名門レプソル・ホンダ・チームへの参加で、初年度のチームメイトはバレンティーノ・ロッシ。この事実をみるだけでも、ホンダのヘイデンに対する期待の大きさがわかる。

 さわやかで気さく、そして飾り気のない素直な性格で、「ケンタッキー・キッド」という愛称どおり、いかにもアメリカの好青年という印象だった。AMAとMotoGPではさまざまな点でレース環境が異なるため、ヘイデンはとにかく謙虚にバイクと向き合い、真面目な態度でいつも徹底的に走り込みを続けていた。

 レプソル・ホンダで先輩ライダーにあたる岡田忠之は、ヘイデンのデビュー当時、チームの助監督として教育係のような任に就いていた時期があったが、彼の性格について、こう評した。

「彼は決して言い訳をしないし、人のせいにしない。でも例えばタイムが出ない時に原因がハードウェアだったということもあるじゃないですか。そんな時も、ニッキーは『責任は自分にある』と言ってしまうんですね」

 06年に世界チャンピオンを獲得した後も、ひたむきな姿勢は一貫して変わることがなかった。開幕前のプレシーズンテストなどで、ヘイデンはコースがオープンしてから日没前の終了時刻まで、終日走り続けた。周回数は誰よりも多かったのではないだろうか。当時のレプソル・ホンダ・チーム監督だった田中誠は「ニッキーの場合、とにかく〈走らないと死んじゃう病〉だからさ」と、半ば呆れ、半ば感心しつつといった口調で笑いながら話した。その様子は、まるで自慢の弟を語るかのようだった。



ヘイデンは、2006年にMotoGPチャンピオンに輝いた

 話を少し戻すと、ヘイデンの初年度ランキングは5位。ルーキーとしてはまずまずといったところだろうか。記録上の初表彰台は、ツインリンクもてぎで開催された第13戦パシフィックGPとなっているが、実は玉田誠の3位の記録がレース後に取り消されたため、決勝の数時間後にヘイデンの繰り上げ3位が決定したという背景事情がある。彼が実際に観客の前で表彰台に登壇した最初のレースは、その2週間後、第15戦オーストラリアGPでの3位獲得だった。

 2年目の04年は年間ランキング8位。翌05年に、ヘイデンにとって母国開催となるU.S.GPが復活した。舞台は、カリフォルニア州のラグナセカ・サーキット。コース最高地点で左へ小さく旋回した直後に、右へ切り返しながら急坂を一気に下る難コーナー「コークスクリュー」が特徴だ。1994年以降、このサーキットではしばらくグランプリが開催されていなかったため、ヘイデンら数人のアメリカンライダーを除き、ほとんど全員がラグナセカ・サーキット初体験だった。

 この地元コースで、ヘイデンは圧倒的な速さを披露した。

 土曜の予選は当然のようにポールポジションを獲得。日曜の決勝レースは、1周目から後続をぐいぐいと突き放して独走優勝。3年目のシーズンでMotoGP初勝利を達成した。そのウィニングランでヘイデンは、父のアール氏をバイクの後ろに乗せてコースをまわった。

 平均的中流家庭のアール・ヘイデン一家は、決して金銭的に裕福な環境ではなかったようだが、長男トミー、次男ニッキー、三男ロジャー・リーの3人すべてをプロフェッショナルライダーに育て上げた。アール氏はほとんど毎回、次男ニッキーのMotoGPのレースに同行した。レプソル・ホンダ・チームのピットボックスにはいつも、いくつものストップウォッチを固定した自作クリップボードを抱えてラップタイムを計測するアール氏の姿があった。

 その父をホンダRC211Vの後ろに乗せて走る息子のウィニングランを、ラグナセカ・サーキットの観衆は大喝采で祝福した。息子の後ろにまたがるアール氏の誇らしげな笑顔が印象的だった。

 表彰式では、3位と2位の選手に続き、司会者がニッキー・ヘイデンの名を告げると、再び大歓声が沸き起こった。ヘイデンは弾けるような笑顔とともに、表彰台の前で軽やかにツイスト風のステップを踏んで見せた。

 彼の楽しそうな笑顔が作り出す愉快な雰囲気が見ている側に伝染する。ニッキー・ヘイデンはそんなライダーだった。

 そういえば、こんなことがあった。

 2006年のシーズン開幕前に、スペインのヘレスサーキットでプレシーズンテストが行なわれた際に、彼に単独インタビューをした時のことだ。子どもの時に憧れていた選手について、彼にたずねた。

 ケニー・ロバーツ、フレディ・スペンサー、エディ・ローソン、ウェイン・レイニー、ケビン・シュワンツ……。20世紀には何人ものアメリカ人ライダーがチャンピオンを獲得してきた。ヘイデンには、母国の彼ら偉大な先達について質問するのがおそらく定番だろう。だが、そんな当たり前の質問は何度も聞かれて飽き飽きしているはずだと思い、「ニッキー、確かあなたはババ・ショバートのファンなんですよね」と問いかけてみた。

 ババ・ショバートは1980年代に活躍した選手で、88年にAMAスーパーバイクのチャンピオンを獲得した。89年からWGP500ccクラスへ参戦を開始するが、第3戦目のレース終了直後に重傷を負い、それが原因で現役活動に終止符を打った。

 世界的には決してメジャーなライダーではない。その名前が、しかも日本人の口から出たことが意外だったのかもしれない。ショバートの名前が出た途端にヘイデンは、「そう、そうなんだよ!」と満面に笑みを浮かべ、饒舌(じょうぜつ)に話し始めた。

 ショバートが世界の舞台で戦ったのはたった3戦にすぎない。だが、アメリカではダートトラックレース(フラットな未舗装オーバルコースで競うレース)を85年から87年まで3年連続で制覇。ヘイデンが成し遂げられなかったグランドスラム(ショートトラック、TT、ハーフマイル、マイル、ロードレースの5種目で勝利すること)を達成した数少ない選手だ。AMAの殿堂入りも果たしている。さらに、アメリカホンダの出身という点で、ヘイデンの先輩ライダーでもある。

 ヘイデンは、いかにショバートがすごいライダーだったか、子どもの頃の自分がいかに彼の走りに憧れていたかを、笑顔で雄弁に語り続けた。

 06年シーズンが始まり、U.S.GPは前年よりも2週間ほど遅い7月下旬に開催された。そのレースウィーク初日、金曜午前のフリープラクティス後にショバートがヘイデンのピットボックスをサプライズ訪問するという出来事があった。ヘイデンが驚き、子どものように喜んだことは言うまでもない。

 この時のヘイデンはグランプリ参戦4年目、25歳の誕生日を数日後に控えていた。シーズン開幕以来、コンスタントに表彰台を獲り続け、この段階でランキング2番手のバレンティーノ・ロッシに対して26ポイント差を開けていた。3番手でチームメイトのルーキー、ダニ・ペドロサには29ポイント差で、チャンピオン争いの首位に立っていた。

 日曜の決勝レースで、ヘイデンは前年以上の強さを見せた。

 前半で様子を見てから、中盤周回で前に出ると一気に引き離すレース展開で圧勝。ラグナセカ・サーキットで2年連続優勝を果たした。2位にはペドロサが入り、レプソル・ホンダがヘイデンのホームコースでワンツーフィニッシュを達成した。ヘイデンはタイトル争いの地歩をさらに固め、約3週間のサマーブレイク期間に入った。  しかし、夏休み明けのシーズン後半は予想外の波乱が待っていた。 (つづく)

【profile】ニッキー・ヘイデン Nicky Hayden
1981年7月30日、アメリカ・ケンタッキー州生まれ。ニックネームは「ケンタッキーキッド」。2002年AMA(全米選手権)スーパーバイクで史上最年少チャンピオン獲得し、03年からはMotoGPのレプソル・ホンダ・チームに参加。06年シーズンには年間総合優勝を果たす。16年にスーパーバイク世界選手権に転向。17年に交通事故に遭い、帰らぬ人となった。享年35歳。