昨年、大阪で中学野球の取材を終えた後、私は監督と雑談するなかで気になる情報を耳にした。「吹田に『おばちゃん』って呼…

 昨年、大阪で中学野球の取材を終えた後、私は監督と雑談するなかで気になる情報を耳にした。

「吹田に『おばちゃん』って呼ばれている女性がおりまして、道ゆく親子連れに『野球やらへん?』って声かけながら歩いているらしいんですわ」

 教えてくれたのは、大阪府門真市で活動する強豪中学軟式クラブ・門真ビックドリームスの橋口和博監督だった。

 娯楽が多様化したいま、競技人口が激減している野球はメジャースポーツの座から滑り落ちつつある。とくにジュニア世代の「野球離れ」は深刻で、人数をそろえるだけで四苦八苦している少年野球チームは珍しくない。

 橋口監督の教えてくれた「おばちゃん」という人物は、聞けば聞くほど興味深かった。

・選手も保護者も指導者もみな「おばちゃん」と呼んでおり、大阪の少年野球界では有名人。だが、橋口監督は本名を知らない

・ユニホームや道具は「お古」を推奨しており、経済的な負担を極力かけないようにしているらしい

・このご時世にもかかわらず団員数は100名を軽く超えるらしい

 道ゆく親子連れへの勧誘エピソードといい、相当なバイタリティーの人物であることがうかがえる。また、野球界の未来を考える上で、「おばちゃん」から大きなヒントが得られる予感がした。

 聞けば橋口監督の友人である樋口豪監督(北豊中友好会)の次男が、「おばちゃん」の少年野球チームに所属しているという。私は樋口監督を介して、「おばちゃん」に会いにいくことにした。

「あぁ、どうも、はじめまして。棚原(たなはら)です」



「おばちゃん」こと棚原安子さん。80歳の今も現役の少年野球指導者だ

 吹田市の喫茶店に「おばちゃん」は現れた。髪色は薄い銀色に染まり、顔にはしわが刻まれている。だが背すじはピンと伸び、明朗な語り口で、いかにもかくしゃくとしている。60歳過ぎの年頃に見えたが、初対面で女性に年齢を尋ねることははばかられた。だが、おばちゃんは挨拶もそこそこに、さらりとこう述べたのだ。

「私も79になりましたけど、ヒザや腰を痛めたことは一度もないんですわ」

 思わず、「えぇっ、79歳なんですか!」と声をあげていた。半年後の2020年1月には80歳、つまり傘寿(さんじゅ)を迎えるという。年齢だけ聞けば「おばちゃん」というより「おばあちゃん」だが、そんな雰囲気は微塵(みじん)もない。

 そもそも、おばちゃんとは何者なのか。

 おばちゃんこと棚原安子さんは、1972年に夫・長一(ちょういち)さんと少年野球チーム「山田西リトルウルフ(以下、ウルフ)」を立ち上げた。「道ゆく親子連れに『野球やらへん?』と声をかける」という噂は事実で、スポーツ経験の有無にかかわらず子どもを勧誘しているという。最盛期には200名、現在でも140名を超える団員が在籍している。

 安子さんのチーム内での肩書きを説明するのは難しい。過去には監督を務めた時期もあったというが、現在は息子の徹さんが監督を務めている。ウルフのホームページにはスタッフ全員の役職が記されており、「会長」「代表」「監督」「コーチ」「審判員」などの役職が並ぶなか、安子さんの欄はなんと「おばちゃん」になっている。つまり、肩書き自体が「おばちゃん」なのだ。

 ここからは、ウルフの流儀に従って「おばちゃん」表記で統一させていただこう。

 おばちゃんの役割は団員勧誘、会計、子育て指南、イベント時の調理など多岐にわたる。特筆すべきは現在もグラウンドに立ち、選手指導をしていることだ。おばちゃんは「うまい子は放っておいてもうまくなる。グラウンドのはしっこで自信なさそうにしてる子に声をかけて、ノックを打ってやるんです」と語る。



ゴロ、ライナー、フライ、守備位置ごとに正確なノックを打ち分ける棚原さん

 おばちゃんが積極的に勧誘しているといっても、なぜこれだけの人数が集まるのだろうか。最近は各地で「お茶当番」に代表される保護者の負担が苦痛で、子どもが野球をしたくても保護者がチーム入団をやめる例も多いという。

 私がそんな少年野球の現状について触れると、おばちゃんは即座に「お茶当番なんか必要ないですよ!」と言い切った。

「そんなもの、子どもが自分でお湯を沸かして作ってくればいいじゃないですか。親は子どもに、自分の身は自分で守る術(すべ)を教えなあかんですよ」

 ウルフではお茶当番制度はなく、子どもが自分で飲み物を用意するよう指導している。指導スタッフの飲み物にしても、「子どもに自分で用意せえと言ってるのに、大人が人に準備させてたら筋が合わないでしょう」というおばちゃんの方針で、スタッフが各自で用意する。

 飲み物に限らず、ウルフでは「自分のことは自分でやる」というおばちゃんの教えが浸透している。たとえばユニホームの洗濯も、子どもが自分でするそうだ。

 思わず「小学1年生もですか?」と尋ねてしまったが、おばちゃんは力強くうなずき、こう言った。

「子どものときに自分のことを自分でやる習慣をつけておかないと、13歳を過ぎてから変えるのは大変ですからね」

 小学3年生で野球を始めてから高校3年生に至るまで、母親にユニホームを洗濯してもらっていた身としては、耳が痛かった。



練習後は子どもたちに野球の話だけでなく、生きるために必要なことも話す

 おばちゃんによると、少子化の影響もあり、子どもに必要以上に世話を焼く保護者が増えているという。だが、保護者になんでもやってもらっていては、将来一人で生活する力は身につかない。ましてや男女平等が叫ばれて久しい現代では、夫婦共働きの家庭は当たり前。たとえ小学生の男児であろうと、今のうちに生活力を身につけておく必要があるというのだ。このような指導方針も、ウルフに子どもが集まる要因かもしれない。

 一方で、野球は金のかかるスポーツである。ユニホーム、ボール、グラブ、バット、スパイクと用具一式そろえるだけでも財布から金が飛んでいく。チームとしても大会参加費やグラウンド代など、さまざまな金がかかるものだ。

 だが、ウルフは月額1000円(1〜2年生は500円)の会費ですべてをまかなっている。月額1000円なら、特別安いと感じない人もいるかもしれない。おばちゃんは「創設当初は50円、2018年までは500円やったのに……」と悔しそうだ。

 しかし、この1000円の会費には遠征時の車移動の経費も含まれている。一部の保護者が車を出し、選手が乗り合いで遠征先に向かう際、高速道路料金、ガソリン代、駐車場代は会費から支払われるのだ。

 ウルフは2016年に全国大会に出場している強豪チームでもある。必然的に公式戦の試合数は増え、遠征する機会も多くなる。移動経費は年間60万円に及ぶという。とても会費だけではまかなえないが、ウルフにはある秘策があるとおばちゃんは言う。

「子どもたちは団地を回って、古紙回収のアルバイトをやっているんです。これで年間約66万円になるので、年間運営資金の3分の1はまかなえます。子どもたちにとっても、いい労働体験になりますしね。あくまで仕事ですから、しっかりやらない学年はやり直しです」

 おばちゃんの話を聞き、私は何度も強いショックを受けた。こんな少年野球チームがあったのか。いや、こんな強烈なキャラクターのおばちゃんが存在していたのか……と。

 私はその場で「絶対に本を書かれたほうがいいですよ」とおばちゃんに提案した。

 タイミングよく、関西圏で活躍するライターの谷上史朗さんが、独自におばちゃんを取材していたことも追い風になった。谷上さんはT-岡田(オリックス)を高校時代から密着して取材していたのだが、岡田は小学生時にウルフに在籍していた。つまり、おばちゃんは岡田の恩師でもあったのだ。

 谷上さんの協力も取りつけ、おばちゃん初の著書『親がやったら、あかん! 80歳”おばちゃん”の野球チームに学ぶ、奇跡の子育て』(集英社)はとんとん拍子に刊行が決まった。

 おばちゃん自身は「私の話でええの?」と首をひねるが、約50年にわたって実直に貫いてきたその教えは、野球界の危機に一石を投じるだけでなく、子育てに悩む保護者にとって心強いアドバイスとなるに違いない。

 コロナ禍で学校が休校になり、自宅で子どもと過ごす時間が長くなったことをストレスに感じる保護者も多いという。だが、おばちゃんは言う。

「今がええチャンス。この時期に子どもたちにしっかりと家の用事をやらせなあかん」

 緊急事態宣言が解除され、少しずつ前向きさを取り戻しつつある人々に、”スーパー傘寿”おばちゃんの教えは次の一歩を踏み出す後押しになるはずだ。