PLAYBACK! オリンピック名勝負———蘇る記憶 第32回

スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典・オリンピック。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あの時の名シーン、名勝負を振り返ります。

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 2012年ロンドン五輪、女子100m背泳ぎで寺川綾は銅メダルを獲得した。それは彼女にとって、01年に16歳で世界選手権初代表に選ばれて以来の、長い長い挑戦の末に得た大きな成果だった。



ロンドン五輪競泳女子100m背泳ぎで銅メダルを獲得した寺川綾

 小さい頃から才能を認められた寺川は、所属していたイトマンSSでも「放し飼いにされていた感じで勝手にやっていた」と言うように、奔放な少女だった。気分が乗らなければ「今日は泳ぎません」と宣言して、他の選手が練習している中、プールサイドをデッキブラシで掃除していることもあった。

 寺川は高校2年で世界選手権に初出場。翌02年のパンパシフィック選手権200m背泳ぎで銀メダルを獲得すると、周囲の期待は大いに高まった。大学時代の04年日本選手権は200mで2位になってアテネ五輪代表に選ばれたが、寺川自身が好きで力を入れていた100mでは4位。五輪前には友達に「もうやめる」と漏らすほどだった。

 当時について、寺川はこう振り返る。

「正直、辛かったですね。みんなに200mに向いていると言われても、自分では『そうじゃないのに』と思っていましたから。周囲からの期待を背負うようになってから、『なんでそんなにプレッシャーをかけるの』と重く感じていました。当時は追い詰められながらギリギリのところで泳いでいたような感じです」

 そんな気持ちで臨んだアテネ五輪の200mは、決勝に進出したものの結果は8位。自己ベストにも遠く及ばないタイムだった。それまでに出場した2度の世界選手権とは違う、五輪のすごさ、難しさを思い知らされた。レース後は自分の不甲斐なさに涙をポロポロ流し、銅メダル獲得の中村礼子を見て「私もああなれたらいいな」と初めて強い〈欲〉が湧き出た。

 4年後の北京へ向けて自分の意識を変えるために考えたのが、本拠地をアメリカのロサンゼルスに移すことだった。クラブの先輩である千葉すずから「日本では(コーチなどに)追い込んでもらう練習が多いけれども、アメリカはそうではない。自分から進んでやっていかなければ、強くなれない環境だ」と聞いたのが印象深かった。

 実際に渡米してみると目からうろこが落ちるほどの練習環境の違いを実感し、「水泳を楽しめそうだ」と思った。だが、コーチの多忙により、常時練習をみてもらえない状況になって、短期間の滞在で帰国することに。思ったように練習できない状況が続くなか、06年パンパシフィック選手権に出場できず、07年3月の世界選手権も05年に続いて出場を逃した。さらに日本選手権では、中村や伊藤華英に敗れ、200mに至っては決勝に進出できないほど調子を落としていた。

 北京五輪イヤーの08年になっても、状況は変わらなかった。4月の日本選手権では、100mが4位で、200mは3位。またしても中村と伊藤の壁を崩すことができず、代表入りを逃した。

「五輪選考に対する考え方が甘かったと思います。04年まではポンポンと代表に入れたから、いつもどおりに泳げば大丈夫という感じで、そんなに重く捉えていなかったんです」

 寺川は、この前年の07年から社会人になっていた。社会人、とはいっても仕事よりも水泳に専念させてもらっている立場。だから、「日本代表になれないのなら競技を辞めたほうがいい」とも考えていた。しかし、テレビで北京五輪を見ていると、代表選手たちを心の90%は応援しながらも、残り10%は応援できない複雑な気持ちでいる自分に気づいた。

「もし、自分のライバル選手を100%応援できていたのなら、自分から身を引いていたかもしれない。でも、そうではなかった。『まだ自分は代表に戻りたいんだ。戻らなきゃいけないんだ』と気づきました」

 寺川はレベルアップのため、北島康介や中村礼子をメダリストに育てたコーチ、平井伯昌(のりまさ)に師事を仰いだ。北島が本拠地をアメリカに移し、中村が引退した当時の状況をチャンスと考えた。

 平井は寺川に指導を依頼された時、最初はためらったという。それまでの代表合宿で見た寺川の印象では、練習に対する甘さが目につき、性格もマイペースそうに見えたからだ。

 だが、寺川には覚悟があった。

「歳も歳だから中途半端にやりたくなくて、『(09年)4月の日本選手権でダメだったら、本当に辞めます』と平井先生に伝えました。続ける限り、もちろんロンドン五輪は自分の目標にあるけれども、北京五輪の選考会で代表に選抜される難しさを学んだから、4年後を目指すとはこの時は口が裂けても言えませんでした。五輪というものは、出場するとかメダルを獲るといったことを軽々しく口に出せる大会ではない、と思っていました」

 この寺川の熱意を汲んで、平井はコーチを引き受けた。そして、指導を始めた直後に、寺川の性格の素直さや資質の高さに驚いた。加えて、スタートの技術やスピードはそれまで指導していた選手よりもはるかに優れていた。

 寺川の資質はすぐに開花した。平井の本格的な指導がスタートしてから泳ぎを少し修正しただけで、09年日本選手権では50mの日本新を記録。さらに100mと200mでも1分00秒と2分10秒の壁を破り、背泳ぎの3冠を獲得した。

 それだけの結果を出しても、寺川はロンドン五輪のことを口にしなかった。これには平井も不思議に感じたというが、寺川は当時まだ自分自身を信じきれていなかったのだ。

 本当に変わったのは、2010年になってからだ。日本選手権後には自分自身をコントロールできるようになってきた実感があり、練習とレースのつじつまも合ってきた。

 8月のパンパシフィックでは、59秒59の自己ベスト。結果は2位だったが、ラスト10mまでトップ。9月の国体で出した59秒13は、同年の年間世界ランキング2位の記録だった。さらに11年世界選手権では、100mはラスト5mで崩れて5位にとどまったものの、50mでは銀メダルを獲得した。

「銀メダルの瞬間はうれしかったけど、なんで50mなんだろう……って思って、100mで失敗した悔しさがより増してきました」

 レース後に語ったその言葉から、寺川がようやく五輪のメダルを本気で考えられるようになったことが感じ取れた。

 12年のロンドン五輪は、出場種目を100m一本に絞り込んで挑んだ。先立つ日本選手権とジャパンオープンで、寺川は日本記録を連発。59秒08を出し、目標だった58秒台に届く手ごたえをつかんだ。

 ロンドン五輪は予選を4位、準決勝を3位で通過。7月30日の決勝を前に平井は4つの指示を寺川に出した。スタート、それからターンに気をつけること、スパートはラスト15mからにすること。そして、前半はリラックスし大きな泳ぎをすること。平井は、当時のレースへの見方をこう振り返る。

「優勝候補は準決勝で58秒39を出して1位通過したエミリー・シーボム(オーストラリア)ですが、予選よりタイムを落としていたから、彼女の決勝タイムは58秒6台、と読んでいました。また、全米選手権で58秒85を出していたメリッサ・フランクリン(アメリカ)も強い選手。彼女は背泳ぎ決勝の10分前に200m自由形の準決勝を泳いだ後できつい状況を踏まえても、うまくいけば金で悪くても銀という感じだった。一方、寺川は準決勝で80mからテンポを上げて終盤で失速し、最後のタッチが合わなかった。だから、決勝はラスト15mからのスパートを指示しました」

 寺川は、平井の指示を守って冷静に泳いだ。50m折り返し5番手から追い上げた。ラスト15mからのスパートもはっきりと「ここからだ」とわかり、練習どおりにスピードを上げた。「最後のタッチをしっかりやるんだぞ」と何度も言った平井の顔を思い出しながらゴールした。

 結果は58秒83のアジア新記録。シーボムは平井の読みどおりに58秒68だった。だが、17歳のフランクリンは驚異的なスタミナを見せて、58秒33でゴールした。寺川は3着だったが、後半50mを過去最速の29秒87で泳ぎ切り、前半を抑えて後半で勝負するという平井の作戦をしっかりと体現した。

「ずっと、ずっと平井先生からいろんなことを注意されて、そのとおりにできるように何回も、何回も試してきました。その成果を今日は出せた気がします。すべてがパーフェクトだったと思います」

 レース後に寺川は、目を潤ませながらそう話した。

 寺川は競技最終日の4×100mメドレーリレーにも出場した。平井の下で一緒に練習するバタフライの加藤ゆかや、自由形の上田春佳たちとのチームで、3位に入ってメダルを獲るという目標を果たした。

 寺川がロンドン五輪の種目を100m一本に絞ったのは、半分はこれが理由だった。前年の世界選手権で4×100mメドレーリレーに参戦した際の結果は5位。寺川は「自分が自己ベストに近いタイムで泳いでいれば、銅メダルは確実だった」という後悔が、100m背泳ぎに専念する決意につながった。

 ロンドン五輪前に、寺川は苦笑しながらこう話していた。

「何をしたら満足するのか、まだわからないところがあります。五輪で一番を獲ったら満足するのか、世界記録を出したら満足するのか……。今まで納得したことがないし、何かを達成した瞬間はたとえ嬉しくても、すぐに何かが足りなくなってくる。そんな気持ちでずっと水泳を続けてきたから、最終目的地では自分が納得して、そして満足したい。それが私の一番の目標なんです。でも、それが一体何なのかは、自分でもわからないんです」

 寺川綾にとって、ロンドン五輪で手にしたふたつの銅メダルが、きっとその疑問に対する答えだったに違いない。