東京五輪&パラリンピック注目アスリート「覚醒の時」第24回 サッカー・冨安健洋代表の主力に定着したアジアカップ(2019年) アスリートの「覚醒の時」――。 それはアスリート本人でも明確には認識できないものかもしれない。 ただ、その選手…

東京五輪&パラリンピック
注目アスリート「覚醒の時」
第24回 サッカー・冨安健洋
代表の主力に定着したアジアカップ(2019年)

 アスリートの「覚醒の時」――。

 それはアスリート本人でも明確には認識できないものかもしれない。

 ただ、その選手に注目し、取材してきた者だからこそ「この時、持っている才能が大きく花開いた」と言える試合や場面に遭遇することがある。

 東京五輪での活躍が期待されるアスリートたちにとって、そのタイミングは果たしていつだったのか……。筆者が思う「その時」を紹介していく――。

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2019年アジアカップで日本代表での確固たる地位を築いた冨安健洋

 男子サッカーにおけるオリンピックは、世界一を決める頂上決戦である他の競技とは異なり、ある意味で特殊な大会だ。

 オリンピックの出場資格があるのは、原則として23歳以下。大会登録メンバー18人のうち、3人までは24歳以上(オーバーエイジ枠)の選手を入れることが可能だが、2020年東京五輪の場合で言えば、基本的には1997年以降生まれの選手が対象となる(開催が1年延期になっても、この基準には変更がなく、来年は24歳以下が対象となる予定だ)。

 男子サッカーの世界一決定戦はあくまでもワールドカップであり、五輪は23歳以下の世界大会という位置づけになっている。

 つまり、五輪に出場する選手は、よくも悪くも発展途上。まだまだ未熟とも言えるが、裏を返せば、底知れぬ成長力を秘めているとも言える。

 だからこそ、面白い。

 若く伸び盛りの選手というのは、時に大きな大会で突如化ける。高いレベルに触れることで、それまで眠っていた力が引き出されるからだろう。

 1試合ごとに、いや、1プレーごとにさえ、選手がみるみるたくましくなっていくこともあるほどだ。

 東京五輪での活躍が期待されるDF、冨安健洋もそうだった。

 2017年5月、当時18歳の冨安はU-20日本代表の一員として、U-20ワールドカップに出場した。

 結果から言えば、日本はベスト16敗退。南アフリカ、ウルグアイ、イタリアと強豪がそろったグループリーグは辛うじて3位で突破したものの、最終的にこの大会で準優勝するベネズエラとの決勝トーナメント1回戦で、延長戦の末に0-1と敗れた。

 悔しさのなかにも、世界との差を肌で感じることのできた充実の4試合。とりわけ、際立つ適応能力を見せたのが、冨安だった。

 センターバックとして全4試合に先発フル出場した冨安は、初戦こそ緊張もあったのか、バタバタしたところを見せたものの、その後の試合ではさらに相手が強くなったにもかかわらず、彼自身の出来は右肩がりの曲線を描いた。

 吸収力の高さを裏づけるように、冨安は当時、こんなことを話している。

「自分は(この大会で通用した部分に)自信を持つよりも、課題を見つけて取り組むタイプなので。また(この大会で)課題が出たし、それに取り組むだけだと思う」

 日本人選手の中には、国内の試合では高い能力を発揮するものの、国際試合になると相手のスピードやパワー、あるいはリーチの長さに戸惑い、力を出せなくなる選手が少なくない。ところが、冨安の場合はむしろ逆。国際試合でこそ、彼の価値――大きくて、強くて、しかもうまい――は一段と高まる。

 事実、冨安にはJリーグでの、とくにJ1の実績がほとんどない。

 アビスパ福岡U-18から高校卒業を待たずにトップチームへ昇格した冨安は、福岡がJ1にいた2016年シーズンを除き、J2でしかプレーしていない。その2016年にしても、まだ高3だった冨安はJ1で10試合に出場しただけだ。

 2017年シーズンはJ1クラブに引き抜かれることもなく、J2に降格した福岡でプレー。そして2018年、Jリーグでは無名に近い存在のまま、ベルギーのシント・トロイデンへ移籍している。

 しかし、ここからの階段の上がり方は早かった。

 シント・トロイデン移籍後、半年間はほとんど出番がなかったが、新たに2018-2019シーズンが始まると、主力の座をがっちりとキープ。シーズン終了後の昨夏には、イタリア・セリエAの名門、ボローニャへの移籍を勝ち取っている。

 こうして振り返ってみると、U-20ワールドカップでの経験にしても、シント・トロイデンへの移籍にしても、彼にとっては覚醒のきっかけに値する十分な出来事だったと言えるのだろう。

 だがしかし、冨安が21歳にして現在の地位――A代表の主力センターバック――を築くに至ったという意味では、覚醒の瞬間はまだ他にあるのではないだろうか。それが、2019年1月にUAEで開かれた、アジアカップである。

 冨安は2018年9月、森保一監督就任とともにA代表に初選出されると、シント・トロイデンでの活躍もあって、ほどなく主力に定着。アジアカップでは、キャプテンの吉田麻也とともにセンターバックを務めた。

 とはいえ、当時20歳の冨安にとっては、A代表として初めて臨む公式戦。それも、4年に一度のアジア王者を決める重要なタイトルマッチである。それなりの壁にぶつかったとしても不思議はなかった。

 ところが、冨安はこの大会でもU-20ワールドカップ同様、初戦こそ落ち着かない一面を見せたものの(この試合だけは、ボランチでの出場だった)、2試合目以降は、みるみるトップレベルのスピードにも慣れていった。

 DFラインの背後をカバー。あるいは、相手の前に出てパスカット。試合を重ねるごとに、冨安は相手の先手を取る機会を増やし、安定したプレーを披露した。

 アジアの強豪国が一堂に会する大会は、アジア限定の大会と言えども、ヨーロッパのメディアやクラブ関係者も多数訪れる。まして、この年は中東での開催だったこともあり、利便性のよさも手伝って注目度はさらに高まっていた。

 そんな大会で、足元の技術にも優れた身長188cmの、しかも、まだ20歳のDFが日本に現れたのである。ヨーロッパのスカウトたちが放っておかないのも当然だった。

 2019年夏、冨安がわずか1年半でベルギーに別れを告げ、イタリアへ戦いの場を移したことはすでに記したが、そこにアジアカップでの活躍が影響していたことは想像に難くない。

 日本人選手としては恵まれた体格の冨安は、それでいて、大柄な選手にありがちな鈍重さはなく、キックの精度も高い。左右両足を同等に扱い、長短のパスを正確に蹴り分ける技術は、小柄なテクニシャンにも見劣らないほどだ。

 ボローニャ移籍後は右サイドバックを務めることも多いが、軽やかなフットワークにぎこちなさは感じられない。わずか2年ほど前まではJ2でプレーする一若手に過ぎなかった選手が、たちまちヨーロッパのビッグクラブも注目する有望株へと成長したのである。

 あたかも自らのステージがレベルアップすればするほど、潜在能力がどんどんと引き出されるかのようだ。秘めたる力にまだまだ底は見えない。

 1年後に東京五輪が開かれるとき、はたして冨安はどのクラブに所属しているのだろうか。

 それが、過去にチャンピオンズリーグを制したことのあるようなクラブだったとしても、もはや誰も驚くまい。