サッカー名将列伝第1回 アリゴ・サッキ革新的な戦術や魅力的なサッカー、無類の勝負強さで、見る者を熱くさせてきた、サッカー…
サッカー名将列伝
第1回 アリゴ・サッキ
革新的な戦術や魅力的なサッカー、無類の勝負強さで、見る者を熱くさせてきた、サッカー界の名将の仕事を紹介。第1回は1987年からミランを率い、その戦術で世界中のサッカースタイルをも変えたと言われる、アリゴ・サッキ監督だ。
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<戦術史の分岐点となった監督>
アリゴ・サッキ監督が率いたミランは、戦術史の分岐点となるチームだ。
フットボールの歴史にはいくつかの分岐点がある。1974年W杯のオランダはその1つで、トータルフットボールと呼ばれた。リヌス・ミケルス監督が率いたオランダは、ポジションが流動化した攻撃と、「ボール狩り」と呼ばれた激しい集中守備に特徴があった。

80年代後半にミランに採用した戦術で、世界中のサッカーに影響を与えたアリゴ・サッキ監督
87年にミランの監督に就任したサッキは、トータルフットボールの守備戦術をアレンジした「プレッシング」によって一世を風靡している。
「プレッシングは私の発明ではない。1950年代のホンベド(ハンガリー)、70年代のアヤックス(オランダ)、80年代のリバプール(イングランド)がすでに存在していた」(サッキ)
あまり真に受けてはいけないだろう。トータルフットボールのミケルスも「ブンダーチーム(30年代のオーストリア)がすでに存在していた」と、同じようなことを言っているが、年齢的にミケルスがオーストリアを見ていたとは思えず、サッキもホンベドをよく知らなかったと思う。彼らが受け継いだのは戦術そのものより、志のようなものだろう。
サッキがオランダの「ボール狩り」に着目していたのは確かだが、そのままではなく、リバプールのゾーンディフェンスと組み合わせたところが秀逸だった。「ボール狩り」は試合のなかで断続的に表れていたにすぎず、回数からいえばセットプレーぐらいの頻度でしかない。しかしサッキは、ゾーンディフェンスを組み合わせることで頻度を上げ、それがミランのプレーに他チームとは隔絶したインテンシティを与えることになったのだ。
<プレッシングの仕組み>
89年のインターコンチネンタルカップ(トヨタカップ)のミラン対ナシオナルは、サッキいわく「ミラーゲーム」だった。当時、世界最先端だったミランの「プレッシング」をコロンビアのクラブが採り入れていたのは奇妙な現象といえる。
サッキのミランは1987-88シーズンのセリエAで優勝、次のシーズンからチャンピオンズカップ(現在のチャンピオンズリーグの前身)を連覇した。このころ新戦術の秘密を探ろうと、世界中の指導者が練習場ミラネッロを訪れる「ミラノ詣で」が流行したぐらいで、プレッシングはまだ謎の戦術だったのだ。
ナシオナルのフランシスコ・マツラナ監督がプレッシングを採用したのは、じつはサッキとはまったく関係のないルートからだった。マツラナはウルグアイ人のリカルド・デレオンという監督に師事していた。デレオンはミケルスが「ボール狩り」を考案するのとほぼ同時期に、ゾーンによるプレッシングを始めていた監督。つまり、サッキより20年も早かった。その当時はほとんど理解を得られなかった守備戦術を、マツラナが掘り起こした。だから89年にミランとナシオナルが「ミラーゲーム」になっていたのである。
ミケルスの「ボール狩り」はマンツーマンをベースにしている。頻度が多くなかったのは、マークがズレていない限りはプレスの必要性がないからだ。発動するのは、むしろマークがズレた時で、素早いマークの受け渡しとオフサイドトラップを同時に行なうことで急にインテンシティが上昇していた。
サッキ、マツラナ、デレオンのプレッシングは「人」ではなく「ボール」がプレスのターゲットである。ゾーンを埋めてボールの出口を塞いでしまう。ボールホルダーにプレッシャーがかかりさえすれば、常にインテンシティの高いプレスが発動した。
ボール狩りとプレッシングは、現象的にはほぼ同じに見えるが、仕組みが違う。
ボール狩りはボールホルダーと周辺の「人」を抑えに動き、かわされそうな時はマークを後方へ受け渡して加勢する。そのためディフェンスラインの人数が足らなくなるのでオフサイドトラップを仕掛けるという流れだ。
一方、プレッシングは隊列を整えたまま4-4-2の各ラインが壁のように囲い込んでボールの出口を塞ぐ。インテンシティが非常に高いので運動量が過酷に見えるが、1人1人の移動距離は10メートル程度にすぎず、マニュアルどおりのマスゲームのような動きなので、体力は見た目ほど消耗しない。
とはいえ、当時の守備戦術としては運動量が多かったし、スプリントの回数も多い。ディテールが明確なのでひとりもさぼれない。狭い地域で相手を潰す戦法なので、奪った時には逆に密集から抜け出すパスワークも必要だった。
「私が発明したのは戦術ではなく練習方法」(サッキ)
サッキはミランのシルビオ・ベルルスコーニ会長に頼み込んで、「ケージ(鳥カゴ)」と呼ばれた、四方を煉瓦の壁で囲まれたミニコートを建設している。そして、そこでノンストップゲームを行なった。インテンシティの高さが決め手となる戦法なので、あらかじめそれに慣れておく。そのための体力や素早い判断力を養成し、奪ったボールを効率的に攻撃へつなげるためのトレーニングを積んでいた。
<「ストーミング」へつながる源流>
サッキのトレーニングは、パートごとの強化と、全体の連動を組み合わせたものだった。
ディフェンスラインの細かいラインコントロールは、ボールの状態によって法則性があり、4人の息を揃えるためのトレーニングが欠かせない。一気に押し上げるボール狩りとは違い、ラインの上下動を繰り返して、FWからDFまでの距離を30メートルのコンパクトな状態に保ちつづけた。
MFのラインは横の距離感を正しくつかむこと。後年、ジョゼップ・グアルディオラ監督によるバルセロナのプレッシングは、5人で横幅を完全に埋める形だったが、サッキのミランの場合は4人である。ひとりあたりの受け持ちゾーンが広い。ボールサイドに寄せきった時に逆はガラ空きになる。そのため、4人の距離を詰めて「壁」の密度を上げるタイミングと速度が重要だった。
プレッシングは相手から「時間」と「空間」を奪い、当初は絶大な効果をあげた。インテンシティの高さと持続性は類のないもので、やがて世界中が模倣して普及していった。フットボールの戦術史は、ミラン以前と以後に分けられる。
サッキは就任したシーズンにセリエAで優勝している。つまり、理屈さえわかれば数カ月で習得できる守備戦術なのである。それが普及した要因だが、同時に膨大な劣化コピーも生み出した。
60年代にリベロの導入で「カテナチオ」(ディフェンスラインに人数をかけた堅守速攻の戦術)を現出させたインテルのエレニオ・エレーラ監督は、「どんなアホでも守るだけならできるものだ」と話している。カテナチオの時と同じく、プレッシングも結果的に劣化コピーが氾濫した。ミランほどの陣容もなく守備戦術のみを模倣した結果、フィジカルと献身性を優先させて技術的劣化を招いた。
やがてプレッシングは、リスク回避のためのラインの後退とともに、インテンシティも低下した。ただ、当初の衝撃は大きく、その時のミランの姿を追い求めた、現在のラルフ・ラングニック監督からユルゲン・クロップ監督らに至る、いわゆる「ストーミング」(強度と持続性をさらに高めた現代流プレッシング戦術)という戦術につながっていくわけだ。
アリゴ・サッキ
Arrigo Sacchi/1946年4月1日生まれ。イタリア・フジニャーノ出身。アマチュアでプレーしながらコーチライセンスを取得し、下部リーグのクラブの監督からスタート。87年にミランの監督に抜擢されると、就任1年目でセリエA優勝。翌シーズンから2季連続でチャンピオンズカップ制覇など、華々しい成績を収める。91年にはイタリア代表監督に就任。94年アメリカW杯でチームを準優勝に導いた