こんな対決あったのか!高校野球レア勝負@甲子園第11回 2010年夏山田哲人(履正社)×歳内宏明(聖光学院) 阪神期待の…

こんな対決あったのか!
高校野球レア勝負@甲子園
第11回 2010年夏
山田哲人(履正社)×歳内宏明(聖光学院)

 阪神期待のルーキー・井上広大から昨年、つまり履正社(大阪)のスラッガーとして注目された時、話をするなかで何度も同じセリフを聞いた。

「あのホームランを見て、履正社に行きたいと思ったんです」

 井上が言う「あのホームラン」とは、2010年夏の甲子園で履正社の3番・山田哲人が聖光学院(福島)の2年生エース・歳内宏明(元阪神)から放った一発だ。プロ入り後も取材のなかで話題に上がるなど、山田本人にとっても思い出深い一発は、彼の技術が詰まった一打でもあった。



聖光学院戦でホームランを含む2安打2打点と活躍した山田哲人

 当日つけていたスコアブックには、この1球に「g」と記している。自分だけのオリジナル記号だが、これは"逆球"という意味で、その横に"反応、回転、真骨頂!"という走り書きもある。またこの一打に、ネット裏の記者席から「これが山田の言っていたバッティングか......」という声が聞こえてきたことも思い出す。

 当時の状況を少し説明すると、あの年の大阪は山田のほかにPL学園の吉川大幾(現・巨人)がドラフト候補として注目を集めていた。それぞれ取材する機会も増えたが、ふたりのキャラクターはじつに対照的だった。

 吉川は負けん気が強く、打撃についてもこだわりを熱っぽく語るタイプ。対する山田は、色白の顔をいつもニコニコさせながら穏やかに話し、バッティングについては感覚派。極端に言えば、「何も考えずに来た球を打ったらヒットになりました」というタイプだった。

 この感覚こそ、山田の能力の高さを示すものでもあるのだが、そんな山田から一度だけ「僕も考えるところは考えています」とやんわり反論されたことがあった。打者にとってもっとも難しいとされる内角球のさばきについて、「こだわりはあるか?」と聞くと、すぐさま山田は反応した。

「とにかく速く振ること。そこを意識しています」

 あまりにシンプルな答えに拍子抜けしそうになったが、そのシンプルな答えを実践できるのが山田のすごさでもあった。

 小学2年から宝塚リトルで野球を始めた山田に、父が繰り返し言ったのが「とにかく速く振れ」だった。とくに体が大きいわけではなかったが、「速く振ることはできる!」と言われ、山田も「そのことばかり考えていました」と真摯に取り組んだ。

 中学時代に所属した兵庫伊丹(ヤングリーグ)は、打撃練習の多いチームで週4回、900グラムから1キロの竹バットを使いスイングを繰り返す。中学生とはいえかなりの負荷で、スイングするのもひと苦労だ。

 自宅に戻れば父を相手にティー打撃。ここでは3種類の重さのバットを使い分け、速いスイングスピードを体に覚えこませるため、通常より軽いバットも使っていたという。幼少期からの鍛錬により、履正社の3年春にはスイングスピード154キロを叩き出すまで成長していた。

 話を聖光学院戦に戻す。スコアブックを確認するとカウントは1−1。捕手は外に寄りアウトコースを要求した。山田もその気配を感じ、目つけは外にあったはずだ。そこに完全な逆球のインハイ。普通なら見逃すか、スイングしても差し込まれるかのどちらかだろう。だが山田は瞬時に反応し、見事な軸回転でレフトスタンドまで運んでみせた。この技ありの一発で、山田は「文句なしのドラフト1位候補」となったわけである。

 試合は山田の一発で同点に追いつくも、8回裏に聖光学院が3点を奪い勝利。夏の大会で福島県勢が初めて大阪代表を破ったわけだが、立役者は2失点完投の歳内だ。

 歳内は中学時代に宝塚ボーイズ(メインの練習場は伊丹市)でプレーしていた時から見る機会が多く、そういった意味で思い入れの強い選手だった。

 子どもの頃からプロ野球選手になることが目標で、高校野球に興味はなかった。そんな歳内の気持ちが変わったのは中学1年の夏。早稲田実業と駒大苫小牧の決勝再試合を甲子園で生観戦。大会を通して本調子でないなか、チームを背負い投げ抜いた宝塚ボーイズOBである田中将大(現・ヤンキース)のピッチング、エースとしての佇まいに魅せられた。「自分も甲子園で投げてみたいと初めて思ったんです」と、高校野球への情熱が一気に上がった。

 宝塚ボーイズで学んだ野球に合うチームへ......と考え、田中が駒大苫小牧へ進んだように、歳内は聖光学院への進学を決めた。2年からエース番号を背負い、初めて甲子園のマウンドに立ったのがこの夏だった。



山田哲人の本塁打で2点は失ったが履正社から10奪三振を記録した歳内宏明

 初戦で大会屈指の本格派右腕、広陵の有原航平(現・日本ハム)に投げ勝ち完封勝利(1対0)。そして履正社にも勝利し、一気に注目を集めた。

 高校時代の田中は対戦相手が「消える」と口を揃えたタテのスライダーがあったが、歳内にはスプリットがあった。2年春にフォークを身につけ、そこからアレンジ。カウント球としても決め球としても使い、相手打者の打席での立ち位置によって落ちるポイントも変えるなど、変幻自在の"魔球"となった。

 この時点での歳内の課題は、140キロに届くか届かないかというストレート。インハイをスタンドまで運ばれた山田へのボールは、まさにその課題が見えた1球だった。

 以降、歳内はストレートにこだわった。翌年の夏の大会前には「真っすぐの質が変わってきて、空振りが取れるようになりました」と手応えを口にしていた。そして2年連続夏の甲子園に出場すると、初戦の日南学園(宮崎)戦はサヨナラ勝ち。歳内は10安打4失点と苦しんだが、16奪三振と意地を見せた。

 だが2回戦で釜田佳直(現・楽天)がエースの金沢(石川)と対戦し、2−4で敗退。野手陣にミスが続き、自責点1ながら4失点。ただ、1年前と比べ明らかにストレートの強さは増し、14奪三振。また、バックにミスが続いたなかでも表情ひとつ変えずに投げ切るなど、心の成長も十分に見せた。

 歳内が高校野球を終えた頃、山田はヤクルトの選手としてプロ1年目からイースタンリーグで出場を重ね、右肩上がりの成長を続けていた。そしてクライマックスシリーズではスタメン起用の大抜擢を受けた。一方の歳内はその秋、阪神からドラフト2位指名を受けプロ入りを果たしたのだった。

 じつはあの試合、山田のホームランが飛び出す直前の5回裏、聖光学院の2点目を挙げたのは歳内の一発だった。打順は9番ながら、堂々の体格と懐の深いバッティングは完全にスラッガー系。それもそのはずで中学時代は4番を打ち、パワフルな打撃が魅力の選手でもあった。その歳内が放ったレフトスタンドへの一発も鮮明に記憶している。

 学年はひとつ違うが、中学時代は目と鼻の先にある伊丹市内のグラウンドで練習に明け暮れたふたりが、大阪と福島の代表チームの中心選手となり、甲子園で対戦した夏から10年。久しぶりに懐かしい記憶が蘇った。