あのブラジル人Jリーガーはいま第5回エメルソン(前編)>>後編を読む エメルソンという通称は、彼の本名とはまるで関係がな…
あのブラジル人Jリーガーはいま
第5回エメルソン(前編)>>後編を読む
エメルソンという通称は、彼の本名とはまるで関係がない。彼の本名はマルシオ・パッソス・ジ・アルブケルケ。しかし、それならなぜ彼はエメルソン・シェイクを名乗っているのか?
その理由は、そのまま彼のサッカー人生を物語っている。

2000年から2005年までJリーグでプレーしたエメルソン photo by Yamazoe Toshio
エメルソンは典型的なブラジル人プレーヤーだ。上下水道もまともにそろっていないファベーラ(スラム)で生まれ育ち、ごみと石ころだらけの道でサッカーを始め、ボールや靴を持ったのはかなりあとになってからだ。貧しいからこそ、彼には夢があった。いつかプロのサッカー選手になって、今の境遇から抜け出すことだ。
エメルソンは確かに生まれ育った町では抜群にサッカーがうまかった。だが、ブラジルにはサッカーのうまい少年はゴマンといる。そのなか頭角を現すのは至難の業だ。ブラジル代表で10番を背負ったライーでさえ、ユースのチームに入る前にテストに7回も落ちている。エメルソンもいろいろなチームのテストを受けたが、受け入れてくれるチームはなかった。
18歳になっても彼はまだプロ選手の一歩を踏み出していなかった。貧しかったので家計を助けなくてはならず、近所の大工の手伝いをしながらテストを受けまくっていた。エメルソンは何十回目かの入団テストに落ちると、とうとう家に帰って泣き出してしまった。のちにエメルソンの母はローカルテレビの番組でその時の様子をこう語っている。
「18歳の息子が家に戻ってきて、目に涙をためてこう言ったの。『ママ、もしかしたら俺はプロ選手にはなれないかもしれない。ママにも家を買ってあげられない』」
そこで母のカルメン・ルチアは偽の出生証明書を作ることにした。マルシオ・パッソス・ジ・アルプケルケは1978年9月6日生まれだったが、新たに作られたマルシオ・エメルソン・パッススの誕生日は1981年12月6日。つまり18歳だった彼は15歳に若返ったのである。
栄養不足で小柄だったからか、幸いにも誰もその詐称に気がつかなかった。しかし、実際には3歳年上なのだから、彼のうまさは際立った。こうして彼は無事にサンパウロのユースチームに入ることができた。同年代の選手の中には、同じように周囲の注目を集めていた少年がいた。その名はカカ。しかし、エメルソンは彼よりもずっと将来有望とされていた。
1998年にサンパウロのトップチームに進み、レギュラーとしてプレーするようにもなった。だが、ここにきて年齢詐称が発覚、彼のブラジルでの将来に赤信号がともった。
サンパウロのチームメイトにサンドロ・ヒロシという日系三世の選手がいた。実は彼も年齢をごまかしていて、それがある時、見つかってしまった。チームあげての大問題となり、サンパウロはすべての選手の出生証明書をもう一度よくチェックすることにした。そこでエメルソンの偽装も発見されてしまったのである。エメルソンの出生証明書は偽物だと認定されたわけではなかったが、騒ぎがこれ以上大きくなることを恐れたチームは、すぐさま彼を放出することに決めた。それもブラジルからできるだけ遠く離れたところに。
それが日本のコンサドーレ札幌だった。おそらく当時のコンサドーレは、この事件のことを知らずに彼を獲得したはずだ。そしてエメルソンは、偽の証明書を持って日本に移籍している。
証明書は偽物でも、彼のサッカーは本物だった。サッカーは彼の大きな武器であり、喜びであった。ゴールを決めれば幸せだったし、日本のサポーターも幸せだった。
出生証明書の顛末を先にお話ししてしまうと、エメルソンが日本をあとにした2006年、この偽造は公になってしまう。ブラジルに一時帰国した際、彼はブラジル警察に拘束された。結局、友人の弁護士たちの力添えで釈放されたが、彼は今でも日本行きが自分を救ったと信じている。なぜなら、日本に行く前に発覚していたら、彼の選手生命はそこで終わっていただろうから。
サッカーは彼を救い、英雄にしてくれた。ファベーラの多くの少年たちがドラックの売人になったり、薬におぼれたりしていくなかで、サッカーがあったからこそ彼はそこから抜け出すことができた。絶望するほどの貧しさと、サッカーですべてが変わった喜びは、実際にそれを体験した者にしかわからないだろう。
エメルソンとは何度か日本の話をしたことがあるが、彼がまず驚いたことは日本人の律義さだったという。
「コンサドーレは契約が成立すると、すぐに俺の口座に金を振り込んでくれたんだ」
日本人の皆さんには、何がそんなに驚くことなのかと不思議に思うかもしれないが、常に給料の支払いが遅れがちなブラジル人にとって、これは奇跡に近いことなのである。そしてもうひとつ彼が驚いたのは――雪だった。
「札幌はとにかく寒いから、それだけは覚悟してほしいと言われた。でも俺はますます日本に興味がわいた。俺はそれまで雪というものを見たことがなかったんだ。俺の生まれたのはリオデジャネイロ州でも最も貧しい町で、夏は40度以上で焼けつくほどに暑くなるところだった。初めて見る雪はフワフワで、俺は楽しくてしょうがなかった」
2000年、コンサドーレはエメルソンを獲得したことが正解だったことを確認した。彼は34試合で31ゴールを決め、J2の得点王とMVPに輝き、チームをJ1に昇格させたのだ。
彼のすばらしいボールタッチは人々を魅了し、所属するすべてのチームで彼は愛された。エメルソンは抜け目なく俊敏で、口元には常に微笑みをたたえてプレーするストライカーだった。日本でプレーするブラジル人選手というと、かつての偉大な選手が晩年を過ごしに......という例が多いが、エメルソンの場合はその真逆だった。日本に来た時は無名だった若手が、数年後にはJリーグのスターになった。
コンサドーレからまずは川崎フロンターレへ。そこで18試合で19ゴールを決めた後は浦和レッズへ。レッズで彼は2003年のJリーグ年間最優秀選手に選ばれ、3年連続ベストイレブンにも輝いた。2004年にはJリーグ得点王にもなり、エメルソンの名をアジアで知らない者はいなくなった。ブラジルでの知名度はなかったが、アジアでは常にトップ3に入る選手だった。彼の写真は多くの雑誌や新聞を飾り、キーホルダーやカップ、Tシャツなどグッズの売れ行きは上々だった。
しかし、有名になると大変なこともあった。浦和の家の前にはいつも大勢のファンがつめかけていたし、彼の車の前で待っている者もいた。練習場から家までの道のりを、ずっと追いかけてこられることも少なくなかった。
「だから、見つからないようにカツラをかぶることもあった。スキンヘッドの頭に金髪のカツラをつけたりしてね。そうすればバレないと思った」
アジアでの名声が、彼の次の行先を決めた。カタールを統治する首長(シェイク)の息子がテレビで彼を見て、そのプレーに一目惚れしたのだ。その数カ月後、レッズの金庫はオイルマネーで潤った。首長の息子がエメルソンをレッズから買ったのである。
エメルソンは日本を愛し、いつも口癖のように言っていた。
「ここでサッカー人生を終えたい」
日本国籍を取得し、日本代表に入ることも真剣に考えたという。
「しかしカタールからのオファーは、無視することができないほどの大金だった。俺の人生を変えてしまうほどの。それは大きな挑戦だった。だから俺はアル・サッドへの移籍を決めたんだ」
エメルソンはカタールでも愛されたが、その方法は日本とは大きく異なっていた。
「日本でもアラブでも、スタジアムでの声援は同じだが、愛情の示し方がまるで違った。日本のファンは惜しみない笑顔と愛情を贈ってくれ、多くの友人もできた。一方、カタールではいい試合したり、ゴールを決めたりするとロレックスの時計をくれるんだ。二度ほど、いいプレーをしたからといって車をもらったこともあった」
多くの金をもらい、シェイクの息子に気に入られたことから、彼はエメルソン・シェイクと呼ばれるようになった。
(つづく)
エメルソン
本名マルシオ・パッソス・ジ・アルブケルケ。1978年9月6日生まれ。サンパウロでデビュー後、2000年にコンサドーレ札幌へ移り、J1昇格に貢献。その後、川崎フロンターレ、浦和レッズでも活躍した。2005年、アル・サッド(カタール)に移籍。さらにフラメンゴ、フルミネンセ、コリンチャンスなどプレーした。カタール代表歴がある。