PLAYBACK! オリンピック名勝負---蘇る記憶 第31回

スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典・オリンピック。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あの時の名シーン、名勝負を振り返ります。

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 2012年7月30日。ロンドン五輪の男子100m背泳ぎ決勝で3位に入り、入江陵介は五輪挑戦2回目で初めてのメダルを獲得した。



ロンドン五輪競泳男子100m背泳ぎで、銅メダルを獲得した入江陵介

 18歳で出場した北京五輪は、200m背泳ぎで5位。その後も、09年と11年の世界選手権で2位と、200m背泳ぎを得意種目にしていた。一方、100m背泳ぎも少しずつ強化に取り組み、11年世界選手権では同着だった首位ふたりに0秒22の僅差で3位を獲得。入江は、頂点が狙える位置まで来ていた。

 ライバルは、当時の世界記録51秒94に0秒14差まで迫っているマシュー・グレイバーズ(アメリカ)だった。ロンドン五輪本番、そのグレイバーズは、100mの予選と準決勝をトップタイムで通過。入江はそれぞれ5位と4位で通過した。

 入江は、決勝では前半を速く入る展開を選択した。ただし、09年世界選手権ではこの作戦を試みて4位にとどまったため、イチかバチかではあった。それでも、道浦健寿コーチと入江が話し合って、「これで行く」と、朝の練習から200mの泳ぎを崩して前半をハイペースで入る練習に取り組んだ。

 準決勝の入江の前半50mは26秒21。これは決勝進出選手中もっとも遅いタイムだった。だが、決勝は「隣の5レーンのカミーユ・ラクール(フランス)を中心に考え、前半を25秒70~80で入れば勝負できる。彼に勝てばメダル圏内に入ることができる」と道浦コーチは考えた。

 その想定どおり、入江は前半50mを25秒82の6番手で折り返す。そして後半、52秒16の五輪記録で優勝したグレイバーズに次ぐ区間タイムで泳ぎ切った。前半トップのラクールをかわし、2位のニック・トーマン(アメリカ)に0秒05まで迫る52秒97で、3位に入ったのである。

「レース前には『北京のような結果だったらどうしよう……』というのがずっと頭の中を占めていました。自分は前半が遅いのはわかっていたし、そこで焦ってしまうとラスト15mの伸びが欠けてしまう。100mは逃げの選手ばかりだけど、僕は差しのタイプなので、『絶対に追い上げて差してやる』という強い気持ちで臨みました。タイムは正直遅いのですが、五輪は順位が大事なので、3位になれたことを素直に喜びたいと思います」

 そう言って入江は喜びをあらわにしたが、少し経つと涙を流しながらこうつけ加えた。

「ここまで、けっこうギリギリでした……。4月の日本選手権が終わったあとは喘息が出て、6月には肩を痛めて左手の感覚がなくなり、ずっと違和感を抱えながら練習をする苦しい時期がつづいていました。最終合宿に入った頃からようやく状態も上がってきましたが、それまでは誰にも相談できず、ずっと孤独で、苦しみつづけていました。今だから言えることだけど、ずっと不安と戦っていました」

 入江は、北京五輪後に北島康介から「後継者」に指名され、水泳界の次期エースとして大きな期待を背負わされてきた。そんななかで目標にしていたのが、北島と同じ金メダル獲得だった。

 09年は好調だった。高速水着を着用して、100mでも200mでも世界記録にあと一歩に迫る日本記録を樹立。その後、200mでは世界記録を塗り替えるタイムが出たが、水着の規定違反として国際水泳連盟には公認されなかった。

 翌10年はその高速水着が禁止になり、入江は春先の足首捻挫が長引いて不調に陥った。だが、11年の日本選手権では、200mで非高速水着のベスト記録であるライアン・ロクテ(アメリカ)の1分54秒12を上回る、1分54秒08をマーク。世界の頂点に立つチャンスが見えてきた。

 しかし、同年7月の世界選手権では、逆にロクテの強さを見せつけられることになる。

 先行するロクテに対し、100m、150mと差をつけられ、最後のターンをしたあとは強烈なバサロキックで一気にリードを奪われた。浮き上がった時にはもう姿が見えないほどだった。ロクテは1分52秒96で優勝。入江は1分54秒11で2位に終わった。

 この結果から、強敵のいる200mよりも100mのほうが金メダルに近い、と指摘する声もあった。だが、入江には「自分が得意なのは200m。それは絶対に捨てられない」という強い想いがあった。

 額にペットボトルを乗せて泳いでも落ちないほど安定した、きれいな泳ぎが入江の武器であり特長だが、打倒・ロクテのためには、それだけでは勝負できない。「いつか必要になる」と考えながらも、フォームが崩れることを恐れて取り組んでこなかったウエイトトレーニングを始めなければ-−。そう感じるようになった。

「11年の9月から12月は、打倒・ロクテというよりも、1年間を通して戦う体をつくるためにひたすら泳ぎ込みました。W杯に出場せず、陸上での補強運動も多めに取り組みました。200m前半を楽に入るためには、100mでも速くならなければいけない。だから、200mの練習をメインにしながら、最後はスピード系のメイン練習も入れてかなり欲張りました」

 水泳だけに集中する生活がつづいた。毎日、まだ暗いうちに家を出て、夜暗くなってから帰宅。器具を使ったウエイトトレーニングも開始し、コーチとのマンツーマンの練習に明け暮れた。

 そのトレーニングの成果もあり、5月末のジャパンオープンでは、最初の100mで11年の世界選手権でロクテが記録した通過タイムより速い、55秒29で入ることができた。しかし、その後に肩を故障。気持ちも落ち込み、エースとしての役割を果たせないのではないかという不安にも襲われた。

 そんな苦しい気持ちを抱えて、入江はロンドン五輪に臨んだ。そして、100mの銅メダル獲得で不安を払しょく。8月2日の200m決勝では、隣の5レーンを泳ぐロクテをきっちりとマークする泳ぎを見せた。

 50m通過は先頭に立ったロクテに0秒03差、100mは0秒22差。さらに「ロクテはここが強いから何とかしなくてはいけない」と警戒していた100~150mでも、0秒03広げられるだけに抑えた。

「ロクテに自分のことを意識させながら泳がなければいけない、と思っていました。最後のターンをしたあとに彼がすぐにバサロを入れたこともわかっていましたが、『この距離感ならいける』と自分でも思っていました」

 昨年の世界選手権では、浮き上がったら相手の姿が見えなかった。だが、今回の入江はそれまで不発だったラストスパートでロクテを上回った。そして、0秒16逆転する1分53秒78でゴール板にタッチしたのだ。

「折り返しのバサロで離された感覚もわかったけれども、最後の50mはロクテと競り合って本当にいい感じで行けました」

 しかし、その入江の電光掲示板の名前の横に”1”の数字は灯らなかった。ロクテのひとつ向こう側、4レーンのタイラー・クラリー(アメリカ)が、0秒37前にタッチしていたのだ。

 前半からロクテの前に出ていれば優勝もあったかもしれないが、結局は2位という結果。入江はその悔しさも滲ませたが、打倒・ロクテを果たした達成感もあった。だからこそ、レース後「今回は、本当に自分らしいレースができました」という言葉が出たのだろう。

 入江は4×100mメドレーリレーでも、アメリカのグレイバーズに0秒34差の52秒92で泳ぎ、銀メダル獲得の流れをつくった。金メダルにこそ届かなかったものの、入江のロンドン五輪は、チームのエースとしての存在感を見せつけた活躍だった。