1870年代に活躍したキャンディ・カミングスがカーブの考案者とされている 野球で投手が重要なポジションになったのは、投手の上手投げが認められた1884年頃からだ。しかしそれ以前から、変化球を投げる投手がいた。変化球の歴史は予想以上に古いのだ…
1870年代に活躍したキャンディ・カミングスがカーブの考案者とされている
野球で投手が重要なポジションになったのは、投手の上手投げが認められた1884年頃からだ。しかしそれ以前から、変化球を投げる投手がいた。変化球の歴史は予想以上に古いのだ。
1884年までの投手は、下手から打者が打ちやすい球を投げていた。また打者は「高め」「低め」などコースを投手に要求することができた。しかし、そんな中でも相手の打者を打ち取るためにいろいろ工夫をする投手がいた。1872年にナショナル・アソシエーションのニューヨーク・ミューチュアルズに入団したキャンディ・カミングスは、史上初めてカーブを投げたといわれる。この球は有効だったようで、カミングスは6シーズンで145勝を挙げ、殿堂入りしている。カーブは野球史上最初の変化球だったといえよう。
その後、カミングスに倣ってカーブを投げる投手が増えている。当時の大選手で、のちにスポーツ用具メーカーの創業者になるAGスポルディングは、自身がカーブを投げることができず、打者としても打てなかったので引退したと言われている。
上手投げが認められてから投手の役割は大きく変わった。投手は打者を三振や凡打に打ち取るために速球を投げ込むようになった。また、打ちにくい球を投げるために、変化球を身に着ける投手も多くなった。1900年にアメリカン・リーグ、ナショナル・リーグの2大リーグになると、多くの投手が登板するようになったが、中には変化球をウィニングショットにする投手もいた。この時期にはボールの握りを工夫してシュートやカーブ、スライダーなどの球種が開発された。
サイ・ヤングは1890年から1911年までプレーし、MLB史上最多の511勝を挙げたが、剛速球に加えて「魔球」と呼ばれた大きな落差のあるカーブが武器だった。
そうした変化球とともに、20世紀初頭、多くの投手が投げたのがスピットボールとエメリーボールだった。スピットボールはボールに唾や他の異物をつけて投げるもの。エメリーボールはボールに傷をつけて投げるもの。ともに、ボールを加工して変化の幅を大きくするものだったが、当初は禁止されていなかった。このため剛速球を持っていない投手を中心に、スピットボール、エメリーボールを投げる投手がたくさん登場した。変化球のかなりの部分がこうしたボールだった。
1920年にルール改正があり、ボールに加工をして投げることは「不正投球」となったが、その時点でスピットボール、エメリーボールを投げていた投手は、引退するまで投げることが認められていた。そのため、セントルイス・ブラウンズのアーバン・ショッカーなど以後もスピットボールの使い手は残り続けた。
さらに、その後もボールを加工する「不正投球」の疑惑は常にあった。MLB通算314勝をした大投手、ゲイロード・ペリーは、ワセリンなどをボールに塗って投げていたとの疑惑が付きまとったが、処罰されたことはなかった。ペリーは1991年に野球殿堂入りしたが、この時にワセリンメーカーへの謝辞を述べている。
沢村栄治はカーブ、杉下茂はフォーク、稲尾和久はスライダーを駆使した
日本でも投手は戦前から、速球に加え、カーブなどの変化球を投げていた。プロ野球草創期の大投手、沢村栄治は速球に加えて、大きく縦に落ちるカーブ(ドロップ)を投げた。まるで急流のように落ちたので「懸河(急流のこと)のドロップ」と言われた。以後も、日本のエースは速球と懸河のドロップを投げるものとされた。
戦前、アメリカの物理学者は「カーブは目の錯覚で曲がったり落ちたりするように見えるだけで、実際は曲がっていない」と結論付けていた。戦後になって、高速撮影などで「カーブは実際に曲がっている」ことが証明された。1948年に公開された「エノケンのホームラン王」は、当時人気絶頂の喜劇俳優・榎本健一を主役にし、三原脩や川上哲治なども出演した野球映画だが、この中にスローモーションで撮影されたカーブを投げるシーンがインサートされており、カーブが曲がっていることを映像で証明している。
明治大学から1949年、中日に入団した杉下茂は、フォークボールを駆使して200勝投手になった。杉下はフォークに握りを打者に見せてから投げることもあったが、打者はわかっていても打てなかったという。杉下のフォークは、回転せずに打者の手元へきて急に落ちた。今でいうナックルのような球だったが、ほとんど打たれなかった。ただ杉下はここぞという時にしかフォークを投げなかった。捕手は変化の予測がつかないため、体で止めなければならなかった。1958年に引退したが、1961年に復帰し、大毎で1シーズンだけ投げている。このとき、杉下のフォークを受けた捕手の醍醐猛夫は取り損なって突き指をし、大きく指が曲がってしまった。
稲尾和久のスライダー、平松政次のシュート、山田久志のシンカーなど、歴史に残る大投手は速球に加え、決め球となる変化球を持っていた。今では、プロ野球の投手は4~5種類の変化球を持っているのが普通だ。スライダー、チェンジアップ、スプリットなどの変化球は、ほとんどの投手が投げるようになっている。清水直行はロッテの投手コーチ時代「若い投手は多くの球種を覚えたがるが、C級品の変化球をいくつも投げられるようになっても仕方がない。今、自分が持っているB級品の変化球をA級に磨き上げるほうが重要だ」と若い投手を戒めていた。
かつては投手が「経験」「勘」で体得していた変化球だが、今ではトラッキングデータなどを解析して、自らの変化球を作り上げる投手も出てきている。2019年12月、法政大学多摩キャンパスで行われた日本野球科学研究会大会にゲストスピーカーとして登場したMLBシンシナティ・レッズの70勝右腕トレバー・バウアーは「ボールの変化量」のマトリックスを見ながら自身の球種について解説し、変化球の変化の度合いや方向を調整するためにトラッキングデータを活用していると語った。
変化球は、野球というゲームを複雑にし、様々な魅力的なシーンを創ってきた。今後も多彩な変化球が生まれ、野球のレベルを押し上げることだろう。(広尾晃 / Koh Hiroo)