僕はこうして逆境を乗り越えてきた 〜塩谷司(アル・アイン)後編〜 UAE(アラブ首長国連邦)のアル・アインFCに加入…
僕はこうして逆境を乗り越えてきた 〜塩谷司(アル・アイン)後編〜
UAE(アラブ首長国連邦)のアル・アインFCに加入して3シーズン目を迎えている塩谷司だが、あの日、背中を押してもらっていなければ、今の彼はなかったかもしれない。
サンフレッチェ広島でJ1優勝を経験することも、海を渡りアル・アインFCでプレーすることも、それこそFIFAクラブワールドカップでレアル・マドリードを相手にゴールを決めることも……。
「塩谷司(アル・アイン)前編」はこちら>>>

クラブW杯でレアル・マドリードと対戦した塩谷司
「俺、大学を途中でやめて就職しようと思っていたんですよね……」
そう言うと、塩谷は自らのキャリアを振り返ってくれた。
「もともと、高校を卒業したら就職するつもりだったんです。僕が通っていたのは徳島商業高校。同級生の半数は、卒業したら県内の企業に就職するような学校でした。うちはあまり裕福ではなかったですし、弟もふたりいたので、早く就職して家族を少しでも楽にさせてあげるべきだと思っていたんです」
高校まで続けてきたサッカーにしても、社会人のチームに入って、趣味で続けていこうと考えていた。ところが、そんな塩谷のもとに東京・国士舘大学から声がかかる。
「授業料も免除というわけではなかったんですけど、親と何度も相談して話し合った結果、勝負してみたいという気持ちになったんです。基本的には、やりたいことはやらせようとしてくれる親だったので、負担はかけますけど、奨学金を借りつつ、『最後に好きなサッカーをがんばっておいで』ということで送り出してくれたんです」
意気揚々と地元・徳島を飛び出せたのは、親の後押しがあったからだった。
希望を胸に抱いて、塩谷は国士舘大学に進学した。ところが、いきなり大きくつまずいてしまう。
「入学式前に新入生たちが集まって、練習に参加する機会があったんです。周りを見たら、全国の有名な高校やクラブチームから選手たちが来ていて、みんなものすごくレベルが高かった。自分は実績があるわけじゃないし、田舎から出てきたこともあって、圧倒されてしまったというか」
当時18歳だった塩谷は、こうも思ったという。
「4年間、こんなにうまい人たちと一緒にサッカーをするのか。俺、もうダメかもしれないな」
幸運にも1年生の前期リーグはメンバーに入ると、途中出場ではあったが数試合でチャンスをもらった。ただ、自信のなさがプレーにも表れていたのだろう。徐々に出番は遠のくと、ついにはメンバーにも選ばれなくなった。
「同級生にも先発で試合に出ている選手がいて、『こういう人がプロになるんだろうな』って思いましたよね。そこから、『俺はもう無理だな』って思って……。今、考えると、その時から真面目にサッカーをやらなくなってしまったんですよね」
徳島で育った青年にとって、都会の街は刺激もあれば、誘惑も多かった。サッカーが楽しくなく、遊ぶことに意識が奪われ、どうすれば練習をサボれるかと考えることもあった。
「サッカー部の練習は本当にきつくて、当時は走るだけで1日が終わる日もありました。でも俺は、自分が悪いのではなく、監督が自分のことを好きじゃないだけだって思っていたんです。周りよりもできるのに、評価してくれないって。
完全に人のせいにしていたんですよね。試合に起用してもらえない理由を、自分ではなく、外部にあると決めつけていたんです。今、思うと、自分が指導者だったとしたら、当時の自分は100%使わないと思います」
自身がそう言い切るほどの状態だったわけだ。
幸いトップチームから落とされることはなかったが、覇気のない生活は続いていた。正月に帰省した時には、後ろめたさから家にいることが窮屈になり、すぐに友人と遊びに出掛けた。サッカーの話題に触れられるのが怖かったのだ。
そんな塩谷にとって大学3年の時、人生を変える大きな出来事が起こる。父親の死だった。
「大学3年の夏前に父親が急死したんです。弟たちには高校も卒業させてあげたかったし、大学にも行かせてあげたいって思った。将来、何になりたいって言うかはわからなかったけど、徳島に帰って働いたほうがいいだろうなって思ったんです。
大学では試合にも出ていないし、練習もきついだけだし、そんなんだったら、一番下の弟が働き出すまでは、自分が家族のことを支えたほうがいいかなって。父親が亡くなった時は、本気でそう思ったんです」
だから、葬儀が終わってひと段落すると、母親にこう切り出した。
「俺、大学やめて、こっちで働くよ」
だが、母親は首を縦には振らなかった。
「そんなにすぐ、将来のことを決めなくてもいいんじゃない。道を探せば、大学を卒業する方法も見つかるかもしれないんだから」
サッカー部の細田三二監督にも電話し、大学をやめて地元で働こうと考えていると伝えた。ただ、母親と同じく、恩師はうなずかなかった。
「授業料のことも含めて、可能なかぎり工面できるように働きかけてみるから、卒業するまでがんばったらどうだって言ってくれたんですよね。せっかく半分以上通った大学なんだから、卒業しようって。その時、試合にも出ていない選手のために、そこまでしてくれるのかって思ったんです」
心が揺さぶられたというよりも、心が震えた。
母親にそのことを話し、「俺、もうちょっとがんばってみたい」と告げると、「こっちでできることはするから」と、再び背中を押してくれた。
「あとあと聞いたら、母親はお金を借りたりとか、大変な思いをさせていたみたいなんですけど、サッカーを続けられるようにしてくれたんですよね。先生もそうだし、母親もそうだし、ふたりの弟も『兄ちゃんがんばれ』って感じで。あとは地元の友人たちも、大学の同級生も、みんながみんな、自分を支えてくれたんです」
その日から、塩谷は変わった。
「それからは一度もクサらなかったですね。2年近く、真剣に練習に取り組んでいなかったので、すぐに試合に出られるわけではなかったですけど、何とかしてやるって、ずっと思ってました」
塩谷は言う。
「あの日から、俺はあきらめなくなった気がします。自分がダメな理由を外に置かなくなった」
3年生の時は、結果的にほとんど試合には出られなかったというが、その年の終わりにCBへと転向させられたことが、プロへの契機となった。
「自分を大学に誘ってくれた人も『お前がサッカーでメシを食っていくなら、絶対にCBだ!』って言ってくれていたんですよね」
当時、コーチとして大学の練習を見てくれていた柱谷哲二に見初められ、水戸ホーリーホックで塩谷はプロのキャリアをスタートさせた。
「4年の時は、ずっと試合に出続けることができたんです。今までにない充実感を得ることができた。哲さん(柱谷)が誘ってくれるまで、プロから声はかからなかったですけど、自分の中ではやり切ったと思えたというか。
あの2年間もちゃんとやっておけばよかったという後悔はありましたけど、自分にできることは全部やった。だから、もう二度とクサることはないだろうなって思えました」
プロサッカー選手として一歩を踏み出すきっかけを与えてくれた柱谷には、「ラスト10分や5分といったみんなが一番苦しい時に、高い集中力とパワーを出せる選手になれ」と教えられたという。
思い起こせば、FIFAクラブワールドカップで、レアル・マドリードを相手に一矢報いる得点を奪ったのは、試合終了間際、89分だった。
「プロになってから試合中に人のせいにしてしまったこともありますし、練習も100%だったかと言われたら、まだまだ甘かったなと思うところもあります。だけど、そこからいろいろなことを経験して、素晴らしいチームメイトと、素晴らしい指導者と、いろいろな人に出会うことができた。
それもこれも、父親が亡くなった時にあきらめてしまっていたら、今の自分はないんですよね。水戸でスタートしたプロのキャリアもそうですし、広島でのJ1優勝もそうですし、この年齢までサッカーができているのは、あきらめなかったから。だから、あきらめないことって大事なんだなって思います」
自分自身があきらめなかったからこそ、今の自分がある。一方で、あきらめることを選択させないようにしてくれた人たちがいることも知っている。だからこそ、塩谷はどんなに逆境に立たされようとも、出会った人たちに感謝しながらプレーしている。