記憶に残るF1ドライバー列伝(6)デイモン・ヒル 昨年。2019年の日本GP、真っ白な髪とあごひげをたくわえた、渋い紳士がマイクを持ちながらパドックを歩いていた。1996年のF1チャンピオン、デイモン・ヒルだった。昨年の日本GP、鈴鹿サーキ…

記憶に残るF1ドライバー列伝(6)
デイモン・ヒル

 昨年。2019年の日本GP、真っ白な髪とあごひげをたくわえた、渋い紳士がマイクを持ちながらパドックを歩いていた。1996年のF1チャンピオン、デイモン・ヒルだった。



昨年の日本GP、鈴鹿サーキットを訪れたデイモン・ヒル(写真提供/BMW)

 現役時代と変わらぬ引き締まった体形で、どこか気品のある表情で歩く姿はカッコよかった。現役時代のヒルは、チームメイトがアラン・プロスト、アイルトン・セナ、ジャック・ビルヌーブ、ライバルはミハエル・シューマッハと個性の強い選手ばかりだったので、どこか自信がなさそうな姿が印象に残っている。

 しかし現在60歳のヒルは、むしろ現役時代よりもF1チャンピオンらしい堂々とした風格を備えていた。このイギリス紳士然とした風貌はF1で2度(1962年と68年)の世界チャンピオンに輝いた父グラハム・ヒルから受け継いだ。

 グラハムはモナコGPを得意としており、モンテカルロで通算5勝。今、フェルナンド・アロンソがF1のモナコGP、アメリカのインディ500マイルレース、フランスのル・マン24時間レースの世界3大レース制覇を目指しているが、それを約50年前に達成した唯一人のドライバーだ。

 ところが、デイモンが15歳の時にグラハムは自ら興したF1チームのスタッフとともに飛行機の墜落事故で亡くなってしまう。グラハムは保険に入っていなかったために、ヒル家は補償のためにほとんどの財産を手放さなければならなくなってしまった。

 裕福な家庭から一転、アルバイトをしながら生活費を稼いでいたというヒルがレースを始めたのは、20歳をこえてからだった。最初はオートバイのレースを始め、その後、4輪のレースに転向。限られた予算の中で国際F3000までステップアップするが、一度も勝つことができなかった。

 転機となったのは91年、ウイリアムズのテストドライバー就任だった。翌年にはブラバムから31歳で遅咲きのF1デビューを果たすが、この頃のブラバムは資金難で瀕死状態だった。ヒルが出場した8戦のうち予選を通過したのは2戦のみ。デビューは散々な結果に終わったが、ウイリアムズのテストドライバーとしてマシンの開発をしながら自らのドライビングを磨いていった。現在のような厳しいテスト制限もなかったため、2年間での走行距離は約2万9000㎞。レース換算すると95戦分に達していたという。

 92年、ヒルが開発に携わったマシンでナイジェル・マンセルが初の世界チャンピオンに輝く。しかしマンセルはウイリアムズと契約内容を巡ってもめ、急遽、F1を去ることになった。その後釜としてヒルが王者チームのレギュラードライバーに大抜擢されるのだ。

 その後、ヒルはウイリアムズでプロスト、セナのもとでドライビングを学び、当時ベネトンのシューマッハとタイトル争いを繰り広げることになるが、ふたりのキャラクターは対照的だった。

 自信に満ちあふれ、頂点を目指してがむしゃらに突っ走るシューマッハと、偉大なチャンピオンの陰に隠れた寡黙なヒル。シューマッハはヒルを「一流ではない」と侮辱したことがあったが、ヒルは沈黙を貫いた。心ないメディアからは「ウイリアムズに乗れば誰でも勝てる」と言われたこともあった。「その最速マシンを作り上げたのは俺だ」と堂々と言えばよかったのだが、そんな言葉を口にしなかった。

 1994年、シューマッハと最終戦オーストラリアまでもつれ込んだタイトル争いは壮絶だった。1点差リードでアデレードに乗り込んだシューマッハは、トップ走行中に自らのミスでコースアウト。追い抜こうとしたヒルに対して体当たりに近い無理なブロックを仕掛けて両者は接触。ともにリタイアに終わり、シューマッハは辛くも初タイトルを獲得する。

 後味の悪い結末だったが、ヒルはシューマッハを一切非難していない。それどころか翌日、シューマッハと一緒に朝食をとり、タイトル獲得を祝福している。それがヒルなのである。

 96年、ヒルは16戦中8勝を挙げ、最終戦となった日本GPで初タイトルを決定。史上初めて親子二代でワールドチャンピオンになった。しかしウイリアムズの首脳陣はヒルの走りに満足せず、彼はチームから放り出される。

 ただ、ヒルの実力を評価している人物はチーム内に少なからずいた。例えば、当時ウイリアムズのチーフデザイナーを務めていた"空力の鬼才"エイドリアン・ニューウェイ。彼はこの解任劇に激怒し、他チームへの移籍を決断するほどだった。

 のちに、マクラーレンやレッドブルで数々のタイトル獲得に貢献した天才デザイナーの怒りは正当だった。ヒルの解任を機にウイリアムズの成績は下降線を描き出す。ヒルはウイリアムズよりも明らかに力の劣るアロウズとジョーダンで戦うことになるが、むしろ彼はドライバーとしての評価を大きく上げていくことになった。

 97年、ヒルは弱小チームのアロウズに移籍し、シーズン序盤は苦戦を強いられるが、第11戦のハンガリーGPで驚くべきレースを見せた。非力なアロウズでスタート直後の1コーナーでシューマッハをぶち抜くと、ラスト1周までトップを独走する。最終的にマシントラブルでスローダウンを余儀なくされ2位に終わるが、「さすがチャンピオン」と誰もが認める走りを披露するのだった。

 98年のベルギーGPも見事だった。雨でクラッシュが続出する大混乱のレース展開となるが、ヒルは落ち着いた走りでレースを制し、参戦8年目のジョーダンに初優勝をもたらすと同時にチャンピオンに相応しい実力を再び証明してみせたのだ。



現役時代のデイモン・ヒル。アロウズ、ジョーダンでも活躍した

 ヒルは昨年、初タイトルを決めた鈴鹿の観客の前で「96年はシーズンを通して大きなプレッシャーだったが、最終的にチャンピオンになるという私の強い意志によって成果を出すことができたと思う」と静かな笑みを浮かべながら振り返っていた。

 波乱万丈の人生を歩み、苦労を重ねた遅咲きのドライバーだったヒル。シューマッハやセナのような華はなかったかもしれない。しかし、伝説のドライバーだった父(14勝)を上回る通算22勝をあげたヒルは、静かな闘志と高潔さを兼ね備えた偉大なチャンピオンだった。

【profile】デイモン・ヒル Damon Hill
1960年9月17日 、イギリス生まれ。92年にブラバムでデビューし、ウイリアムズ、アロウズ、ジョーダンに所属し、99年シーズン限りでF1を引退。96年にウイリアムズ・ルノーでドライバーズ・チャンピオンに輝く。通算22勝。現在はイギリスのテレビ局でF1解説者を務める。プライベートでは4人の子どもの父親で、次男ジョシュは一時レーサーを目指して活動していたが、現在はプロのドラマーとして音楽の道に進んでいる。ヒル自身は若いころに音楽にのめりこみ、パンクバンド"セックス・ヒットラー&ザ・ホルモンズ"で活動していたというが、その遺伝子は息子に受け継がれた。