東京五輪&パラリンピック
注目アスリート「覚醒の時」
第8回 陸上短距離・桐生祥秀
日本インカレ陸上 男子100m決勝(2017年)

 アスリートの「覚醒の時」――。

 それはアスリート本人でも明確には認識できないものかもしれない。

 ただ、その選手に注目し、取材してきた者だからこそ「この時、持っている才能が大きく花開いた」と言える試合や場面に遭遇することがある。

 東京五輪での活躍が期待されるアスリートたちにとって、そのタイミングは果たしていつだったのか……。筆者が思う「その時」を紹介していく――。

 2017年9月9日の日本インカレ男子100m決勝。桐生祥秀は日本人初の9秒台となる9秒98で優勝した。その勝利は、高校3年の13年4月29日から背負い続けてきた重荷から、ようやく解放され、桐生がスプリンターとして新しい一歩を踏み出した瞬間だった。

 高校1年で国体少年B(高1と中3が出場)で優勝し、翌年の高2の国体少年Aでは10秒21の日本ジュニア新で優勝。その1カ月後には10秒19まで記録を伸ばしていた桐生は、この時点ではまだ関係者に注目されるだけの存在だった。

 それが、高3で出場した織田幹雄記念大会で一変。桐生はこれが初めてシニアの選手たちと競うレースだったが、その走りに会場はざわめいた。

 追い風0.9mの条件下で予選第3組に出てきた桐生は、前年のロンドン五輪200m代表の高瀬慧と飯塚翔太を置き去りにして、10秒01で走り抜けたのだ。この記録は風速計が旧式だったため公認されなかったが、当時の世界ジュニアタイ記録で、日本陸連が設定した同年8月の世界選手権派遣記録をも突破するものだった。

 決勝は、追い風2.7mの非公認記録条件になった。終盤に硬さが出たものの、桐生は10秒03で、12年のロンドン五輪100mと4×100mリレーに出場した山縣亮太と江里口匡史にも競り勝って優勝。10秒01が単なるフロックではないことを証明した。

 98年12月のアジア大会で伊東浩司が10秒00を出して以来、9秒台は、日本の選手にとって届きそうでなかなか届かない領域だった。織田記念のレース後に桐生はこう話している。

「9秒台は夢だったのですが、あと0秒02だから現実(実現可能な目標)になったと思います」

 これをきっかけに桐生の名前は全国区になり、”9秒台”への日本中の期待を一身に背負うことになった。

 桐生はその年の6月にはダイヤモンドリーグの英国GPに主宰者招待で出場し、8月の世界選手権にも出場。さらに、大学1年の14年には、前年の日本選手権で敗れた山縣に競り勝って優勝し、世界ジュニアでは銅メダルを獲得した。

 そして、15年にはシーズン初レースだった3月のテキサスリレーで、追い風参考記録ながら9秒87で走った。その後、5月の関東インカレで左太ももの肉離れを起こして離脱したものの、9月下旬に復帰。10月の布勢スプリントでは、翌年のリオデジャネイロ五輪参加標準記録を突破する10秒09で走れるところまで戻してきていた。

 ただ、桐生の走るレースは常に9秒台が期待され、そんな状況に自身の口からは、こんな言葉も漏れていた。

「日本だと顔も知られているし、プレッシャーとは言わないまでも、レースでも雰囲気が違うじゃないですか。でも、海外へ行くと普通の日本人としか見られないし、どんな小さな大会でも会場の雰囲気が盛り上がっているから、自然にワクワクするんです。ところが日本に帰ってくると、拍手や歓声も違うから、自分で自分のスイッチを入れなければいけない。そういう気持ちになってしまうから、体がついてこないんですね。海外へ行って、そう思うようになりました」

 桐生は、フランス人選手として初めて10秒台の壁を突破したクリストフ・ルメートルを指導したコーチから、「9秒台を出すためには10秒0台をコンスタントに出さなければいけない」と言われたことがあった。その言葉を意識しながら出す10秒0台は、十分に好記録と言えた。

 だが、日本で桐生の参加する大会では、10秒台の記録が出ても、観客席から聞こえてくるのは大きなため息だけ。そんな反応を目の当たりにすると、大きな疲労感を覚える。桐生はそう話していた。

 17年は、前年のリオ五輪4×100mリレーで銀メダルを獲った高揚感を持って臨んだシーズンだった。練習もかねて出場した3月のオーストラリアのレースで桐生は、いきなり10秒04を出すと、帰国後4月23日の吉岡隆徳記念で10秒08。6日後の織田記念では向かい風0.3mで10秒04と絶好の滑り出し。だが、日本選手権では予選と準決勝で10秒06を出したものの、決勝では大会記録の10秒05で走ったサニブラウン・ハキームらに敗れて4位に終わる屈辱を味わった。

 そして、迎えた9月9日の日本インカレ。桐生にとっては、4×100mリレーのみの出場だった世界選手権から約1カ月後の大会で、モチベーションの維持は難しかった。それでも、東洋大のユニフォームを着て走る最後のレースという思いがあった。さらに、世界選手権では観客席から100mと200mを観戦し、サニブラウンがそこで戦う姿を見て感じた悔しさも内なるエネルギーになって蓄積されていた。

 だが、不安材料もあった。世界選手権のリレー後に左ハムストリング筋(太ももの裏)に違和感があったのだ。その影響もあって、狙うのは100mではなく、高校3年以来ベストを出せていない200mの自己記録の更新、という気持ちになっていた。

 しかし、大会初日の8日、追い風参考記録ながら100m予選で10秒18、準決勝で10秒14。好感触を得たことでその気持ちが少し変わった。桐生は、100m決勝のスタート時には「この脚、最後まで持ってくれ……」と思っていたという。

 そんな気持ちがかえって幸いしたのか、スタートで力まずに走り出すことができた。前半は多田修平に先行されたものの、力むことなく加速した桐生は中盤で交わし、47歩で駆け抜けた。直前に行なわれた女子100m決勝は、追い風2.3mだったが、男子のスタート時には風が収まり、追い風1.8mと絶好の条件に変化していた。

 ランニングタイマーの計時は、9秒99で止まった。

 土江寛裕コーチは一瞬喜んだあと、手を組んで祈っていた。98年アジア大会の伊東もランニングタイマーは9秒99で止まったが、その後の正式計時で10秒00になった。土江コーチはそれを現場で見ていたからこそ、正式タイムが9秒98に変わると、両手を挙げて飛びあがり、涙を流した。グラウンドでは桐生が飛び跳ねていた。

「僕は何事も根拠を大事にする」と土江コーチは言う。「桐生が1年の時は9秒台を出せる根拠がなかったので、9秒(台を目指せ)とは言えなかったんです。しかし、15年にかけてウエイトトレーニングも取り入れたことで、追い風参考の9秒87という結果が出ました。とはいえ、それは本人がやりたい形のトレーニングではなかったことが、ケガにつながったのだと思います」

 その後は、桐生が主体性を持つようになり、自らが望むトレーニングを積み重ねていった。そんな進化の継続が9秒98という結果につながったのだ。

「10秒01と9秒98の距離の違いは30㎝。それを縮めてここまで来るのに時間がかかったけれど、今はまだ9秒台を出してやっと世界のスタート地点に立っただけなので、いわばまだゼロ地点。ここから先が長いのだと思います。9秒台を出したから満足、という人は誰もいないと思うし、今後、日本記録はどんどん変わっていくと思います。自分もその記録を0秒01でも縮めたいので、これからはみんなが想像できないくらい日本の陸上界も変わっていくと思と思います」(桐生)

 13年4月に10秒01を出した時から、桐生は9秒台への期待という重荷をずっと背負い続けてきた。そして、「それを誰よりも最初に実現したい」と言い続けてきた。その桐生が実現した9秒98だったからこそ、大きな意義があったと言える。

 この瞬間、日本人スプリンターにとって9秒台という記録が、乗り越えるべき壁から”世界との勝負”に勝つための現実的な目標へと変わったのは間違いない。
 
“日本人初の9秒台”という重荷を下ろせたからこそ、今の桐生はライバルたちと切磋琢磨しながら勝つことにフォーカスして、自身が描く最高のパフォーマンスを追求している。