日本プロ野球「我が心の最良助っ人」第3回 ウォーレン・クロマティ(巨人) 東京ドームが誕生する前、後楽園球場が取り壊され…

日本プロ野球「我が心の最良助っ人」
第3回 ウォーレン・クロマティ(巨人)

 東京ドームが誕生する前、後楽園球場が取り壊される直前の1980年代は、トランペットにあわせてメガホンを叩きながら選手の応援歌をでっかい声で歌う、今の応援スタイルの草創期だった。

 だから外野席の人気は急騰していた。やがて選手別の応援歌が歌われるようになる。

『光より速く、青い稲妻〜』(松本匡史)

『輝く光浴びて、それゆけタツノリ〜』(原辰徳)

『燃えろ〜キヨシ、男なら〜』(中畑清)



巨人に7年間在籍し、1989年には首位打者のタイトルを獲得したクロマティ

 そんなわけで、当時の巨人ファンにとって後楽園球場のライトスタンドに陣取るのは容易なことではなかった。あの頃の後楽園には外野席券というものはなく、外野席へ入れる自由席券はジャンボスタンド(内野二階席)と共通だったからだ。キャパシティの小さな外野席へ入るためには、早朝から外野席の入り口の前に並ばなければならなかった。

 しかし、穴場があった。

 それが神宮球場だ。神宮は都心にあるにもかかわらず、夕方、思いついて出かけても巨人側のレフトスタンドに余裕で入れた。当日券も簡単に買えた。だから神宮のヤクルト対巨人戦へはブラっと行くことができた。

 ただし、あの日はブラっと行ったわけではなかった。1986年10月3日──巨人ファンにとっては"いざ神宮"の心境の、決して忘れることのできない1日だ。

 1986年のシーズン終盤、巨人は広島と激しい優勝争いを繰り広げていた。王貞治が監督となった1984年からの2シーズン、巨人はいずれも3位に終わっている。

 迎えた3年目の王巨人。

 この年、阪神が夏場に失速。広島とのマッチレースとなったペナントレース終盤、9月下旬の直接対決で巨人は4番の原辰徳を左手有鈎骨骨折で失うことになる。その日の負けで広島に首位の座を明け渡した巨人だったが、その翌日から4番に入ったウォーレン・クロマティが3試合連続ホームランを放つなど神懸かったバッティングで怒濤の6連勝を牽引。いよいよ優勝争いは大詰めを迎えた。

 ところが巨人は、そのクロマティも失いかける。10月2日の神宮球場で、4番のクロマティが頭部にデッドボールを受けて退場することになってしまったのである。あの時、ヤクルトの高野光が投じた145キロのストレートがヘルメットに当たった音は、大袈裟ではなくレフトスタンドまで届いた。三塁側に跳ねて転がったボールと倒れ込んだクロマティの姿に絶句した巨人ファンが喰らった衝撃は、計り知れないほど甚大なものだった。

 クロマティはすぐさま救急車で病院へ運ばれる。当時は大学生で、取材をしていたわけではなかったので、クロマティの様子は翌朝のスポーツ報知で確かめるしかなかった。

「踏み込んだのでよけ切れなかった、でも記憶もあるし大丈夫」という本人のコメントに安堵した記憶が残っている。

 とはいえ原もクロマティもいない......ふたりの4番を失って、4番に中畑清、5番にはキャッチャーの山倉和博を入れる苦肉のオーダーで臨んだ10月3日のヤクルト戦──ブラっと行ったわけではない、決死の覚悟で"いざ神宮"へとはせ参じたこの試合、なんと、球場にいるはずのなかったクロマティが奇跡のホームランを放つのである。

 巨人は先発の水野雄仁が初回、いきなり3点を失う。それでも3回表に同点として、3−3で迎えた6回表、巨人はツーアウト満塁のチャンスを掴んだ。バッターは1番の松本匡史。ここで神宮に響いた場内アナウンスにレフトスタンドで応援する巨人ファンの誰もが耳を疑った。

『松本に代わりまして、バッター、クロマティ、バッターはクロマティ、背番号49』

 代打にクロマティが出てきたのだ。

 レフトスタンドから見ると豆粒ほどの大きさの選手がバッターボックスへ向かう。たしかにクロマティだ。「おいおい、ホントかよ」とまずはどよめき、やがて「よっしゃあ」と湧き上がる大歓声。

 頭にデッドボールを喰らった翌日、ベンチにいたことも知らなかったし、代打に出てきたことにも恐れ入った。自然と応援歌のボルテージはマックスになる。そんな中、闇夜を切り裂いてクロマティが打ったセンターから左へ切れていく打球が、レフトスタンドへグングン近づいてくる。

 代打、満塁ホームランだ(号泣)。

 人生であれほどでっかい声で叫んだことはない。あらん限りの力で両腕を天に突き上げてのバンザイ。そして止めどなく溢れてくる涙。ベースを回るクロマティはガッツポーズだ。勝利を、優勝を手繰り寄せる奇跡のホームラン──歓喜の余韻が覚めやらぬ試合後のクロマティはスタンドに向かってバンザイを繰り返した。あの瞬間こそが、球場で味わった巨人ファンとしての至福の時だったのかもしれないと、つくづく思う。それほど心震えた夜だった。

 のちに野球の取材を仕事にしてからクロマティにインタビューをする機会があった。もっとも訊きたかったのは、あのホームランをどう感じているのかということだ。クロマティは言った。

「デッドボールを受けた翌日、どうしてバッターボックスに立てたのかとよく言われるんだけど、メジャーでプレーしていた時もそうしていた。僕にとっては特別なことじゃない。前夜、病院にいた時から次の日、ホームランを打てる予感がしていたんだ。だから次の日、僕は神宮へ行って、ボス(王監督)に『ダイジョーブ、ダイジョーブ』と伝えた。それでもスタメンからは外れて、満塁のチャンスに代打で出た。そして、左中間のスタンドにホームランを打った。

 神宮球場はバンザイ、バンザイの大合唱だった。ナカハタさん(中畑清)が、『クロウは日本人だ』とみんなに話してくれた。それを聞いて僕は誇らしい気持ちになった。ナカハタさんほどの選手がそう言ってくれる。ナカハタさんはとても誠実。僕はナカハタさんが大好きだった。神宮でホームランを打ったあの日、アウトサイダーだった僕は、ジャイアンツに受け入れられて、ファンにも受け入れられた。僕にとっては神話のようなストーリーだったと思ってるよ」

 巨人ファンが歌ったクロマティの応援歌には、『おまえが打たなきゃ明日は雨』というフレーズがある。

 打たなきゃ、明日は雨になる? そんなバカな、と笑うなかれ。クロマティが打たなければ次の日は雨だと、あの頃の巨人ファンは本当に信じていたのである──。