連載「Voice――今、伝えたいこと」第11回、競泳五輪メダリストからのメッセージ

 新型コロナウイルス感染拡大により、スポーツ界はいまだかつてない困難に直面している。試合、大会などのイベントが軒並み延期、中止に。ファンは“ライブスポーツ”を楽しむことができず、アスリートは自らを最も表現できる場所を失った。

 日本全体が苦境に立たされる今、スポーツ界に生きる者は何を思い、現実とどう向き合っているのか。「THE ANSWER」は新連載「Voice――今、伝えたいこと」を始動。各競技の現役選手、OB、指導者らが競技を代表し、それぞれの立場から今、世の中に伝えたい“声”を届ける。

 第11回は、2012年ロンドン五輪競泳女子100メートル背泳ぎ、同400メートルメドレーリレーで銅メダリストの寺川綾さんが登場する。新型コロナ禍で泳ぐことができないスイマーの体への影響、東京五輪・パラリンピックの延期による心の負担を解説。後輩たちの苦しい現状を慮る複雑な心境を抱きつつも、自身の経験を振り返りながら前を向く大切さを語り、アスリートが発揮する「スポーツの力」に期待を込めた。

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 スイマーが泳げない。泳いではいけない。初めて水をかく喜びを知った幼き日から、誰よりも速く水中を突き進む楽しさを知った日から、ずっと当たり前のように生きてきた場所を失った。

「先日話をした選手はまだ自宅待機中で、プールで泳ぐことはしていないようです。いつ再開できるかわからない。確認しきれてはいませんが、所属チームによって動き方もそれぞれだと思います」

 5月2日、Zoomで取材を受けた寺川は明かした。コロナ禍で拠点のプールが閉鎖された選手もいる。未曽有の苦難。ほんの数日だけ泳がないことが、研ぎ澄まされたトップスイマーの感覚を大きく狂わせる。

「水中で使う筋力は水に入らないと付かないものですし、確認できない感覚もあります。厳しいことですよね。水中の手や足の感覚などが失われるのは、競泳選手にとっては一番つらいことだと思います」

 競泳界のエース・瀬戸大也(ANA)は自宅の庭に2、3メートル四方の簡易プールを設置。SNSに「水をキャッチする感覚や泳がないと動かない細かい関節や筋肉があるんです。だから泳がないと」とつづっていた。これについて寺川は「何もできないよりも、少しでも水に触れることで養える部分があると思います」と説明しつつ「スピード感覚などは、大きなプールで自分の力を使って確認しながら泳がないと、感覚に少しズレが生じてしまう」と十分とは言い切れないそうだ。

 自身も現役時代にプールで泳がない代償を痛感したことがある。精神的に苦しく、プールを離れた時があった。「でも、海で泳いでいました。(感覚を失うことが)やはり怖いですよね」。ただし、期間はほんの1週間程度。再びプールに戻った時に味わった感覚は忘れられない。

「スカスカするんですよ。表現が難しいですが、水を捉える感覚みたいなものが鈍ってしまった。泳がなくなる前とは全く違っていて、やはり水泳選手はプールで泳がないとトレーニングにならないんだなと感じました」

 取り戻すには、最低でも休んだ倍の時間が必要だという。緊急事態宣言が出て約1か月半。1年延期になったとはいえ、東京五輪・パラリンピックは問答無用に迫ってくる。このタイミングで「感覚を失う」ことの重大さは、どれほどのものがあるのだろうか。世界各国でも同じような状況だと予想される。寺川は選手だった立場から、心苦しさをにじませながら現役スイマーたちの心情を慮った。

「可哀そうですよね。オリンピック、パラリンピックに向かってどんどん時間は迫っていっているにも関わらず、ようやくプールに入れた時にいつもと違う感覚になるんだろうなと想像するのが、少し怖いというか、そこでまた精神的に大変なのではないかと思います。

 確実に全員が家にいて、全員が練習できていないという状況ではない。それぞれバラバラ。だから、本当に家から出られない国の選手もまだいると思います。そういう選手は……ねぇ、なんかもうつらいですよね。オリンピック、パラリンピックのスタートは決まっていて、自分では何もできないという状況。フェアじゃないというか、選手だった立場としては、つらいでは済まされない心情ではないかと思います」

東京五輪が与える1年の“ズレ”、コロナに「一番大事な時間を奪われてしまった」

 競泳選手に与えるコロナの影響は、コンディションだけではない。東京五輪・パラリンピックの1年延期。人生を懸けて追い続けた目標が先延ばしになった。日本代表の選考会となる4月上旬の日本選手権は直前に実施不可能と発表され、12月開催に。21年4月の同大会が東京五輪の選考会となる。目標を失ったわけではないが、1年の“ズレ”の大きさは計り知れない。寺川は「私も経験したことがないのでわかりませんが」と前置きした上でこう語った。

「選手は驚くほど練習をしてきていると思うんですよ。4年に一度のその瞬間に全てを懸けてやってきている。ましてやオリンピックでメダル争いができる選手ではなく、代表になるために選考会に向かってきていた選手は(4月の日本選手権までに)おそらく今までの人生で一番厳しいトレーニングを積んできたと思うんです。だから、また一から同じことをやり直せるかというと、気持ちをリセットするのにかなり時間が必要だと思います」

 瀬戸は東京五輪の延期決定から約2週間後、インスタグラムを更新した。「来年に向けての気持ちの整理ができず、今までコメントを出せずにいました」。覚悟を持っていたからこそ、前向きな発言ができず「延期が決まった時は喪失感で抜け殻になりました」と吐露。完全に気持ちを切り替えられない複雑な心境を明かしていた。寺川はこういった後輩たちの心中を想像する。

「切り替えられないというのがみんなの本音だと思います。そんな簡単なものではない。悔しいよね、悲しいよね、どうしようか、という言葉で済まされるようなことでもないと思うんです。本当にその競技の一番大事な瞬間を奪われてしまっている状況。なんとか気持ちを保っているのだと思います。

(競技生活で味わった)今までの壁とは比べものにならないもの。過去の経験を生かして乗り越えるとか、そういうレベルではないと思いますが、いかにオリンピックに向かっていく気持ちを強く持てるか。前向きに、無理やりにでももっていくことが一番大事ではないかと思います。

 かなりの覚悟が必要ですが、オリンピックに出られる選手や、代表に選ばれるか選ばれないかギリギリの選手は、人に何かを言われてやらされている選手ではありません。自分で出たくて、自分で戦いたくて、その場に向かっています。やはりそういう選手は、今回の状況を乗り越える心の力を必ず持っていると思います。まず立て直して、またトレーニングできる状況になれば、しっかりと切り替えてやってくれるのではないかと思います」

 競技に人生を懸けたアスリートにも襲い掛かっている「国難」という巨大な壁。前向きになる方法はあるのだろうか。

 現役時代、寺川には前向きになれた瞬間があった。04年アテネ五輪の代表選考会。五輪初出場を目指す19歳は、日の丸を背負えるかどうかの分岐点にいた。「もう無理なんじゃないかなってずっと思っていました」。決勝に進出したが、弱気になっていた。準決勝から決勝までの時間。そばには、自分以上に自分のことを考えてくれる人たちがいた。

「トレーナーさんがマッサージしながらいろんなことを話してくれたり、周りのスタッフたちが本当に凄く応援してくれたりしていた。一番頑張らないといけないのは自分なのに、みんながこれだけ考えて声をかけてくれたことに対して凄く失礼なんじゃないかなとその時に思いました。

 自分のために泳ぐのはもちろんですが、ギリギリまで諦めずに応援し続けてくれた人たちに対して、自分の結果でみんなを喜ばせることが一番やりたかったこと。そういう結果を自分でつかみ取りたいと思いました。気づいたのは本当にギリギリ。選考会の決勝前にそう思いました。だから、自分がしっかり前を向いてやらなきゃダメなんだなって。アテネの時は周りの人に励まされて気づきました」

現役選手たちへ、胸中複雑「頑張ってくださいと言うのは凄く嫌」

 泳ぐのは一人だが、戦っているのは一人ではない。当然のことにも思えるが、見失いがちな大切なこと。19歳で気づかされた。切符を手にしたアテネ五輪は、女子200メートル背泳ぎで8位入賞。「みんなを喜ばせる」というメンタルが勇気をくれた。しかし、寺川曰く“恩返しをしなきゃいけない”という姿勢ではない。“恩返しの順序”について自分なりの考えを明かした。

「私が思うのは、まずは自分が頑張って、それに結果がついてきて、その結果でみんなが喜んでくれればいいなと。『みんなを喜ばせるために頑張りたい』というのは、少し順序が違う気がするんです。

 インタビューをよくさせていただきますが、今のアスリートは凄いですよね。選手としての本質をしっかり貫き通した上で、周りの人に喜んでほしいという感覚を持ち合わせていらっしゃる。一流選手のみなさんが必ずそうおっしゃるので素晴らしいなと思います。だから、今回はこういった状況ですが、まずは自分が目標を成し遂げて、さらに周りにも元気になってほしいという感覚でやってくれると嬉しいですね」

 今は自宅でできるトレーニング動画をSNSにアップしたり、ライブ配信で直接ファンと交流したりする選手も多い。今の時代に沿ったやり方に、寺川は「それだけで凄くハッピーになれる人たちがたくさんいると思います。でも、今はそれどころではない選手もいると思うので、できる人たちは余裕があればやってもらえると嬉しいですね」と願った。

 自身も今夏の東京五輪に向けた取材を多く予定していたが、コロナの影響でなくなった。外出自粛を続ける中、スポーツキャスターとしてテレビ番組にリモート出演することもあるが「この状況なので、何か明るい話題を探すのに必死です」と苦笑いする。そんな中でも「なんとかスポーツと関連する明るい出来事、前向きになれる出来事を探して、それをお伝えできればいいなと思います」と取り組んでいる。

 誰も経験したことがないウイルスとの闘い。コロナ禍でも前を向こうとする現役選手たちに今、伝えたいこととは――。最後の質問に「今の状況で『頑張ってください』と言うのは、もう凄く嫌なんですよ」と複雑な胸中を垣間見せながら、優しく言葉を紡いだ。

「みんなの気持ちを100%わかることはできませんが、オリンピック、パラリンピックはみんなが人生を懸けているので、やはり延期になったことで自分の人生計画が大きく変わる選手もいると思うんです。でも、それを必ず乗り越えてみんながオリンピック、パラリンピックに向かってくるはず。今だからこそ、オリンピック、パラリンピックでスポーツの力を改めて見せつけてほしいなと思います」

 いまだかつて誰も泳いだことのない荒波かもしれない。だからこそ、泳ぎ切った先にあるスポーツの祭典が莫大な力を生む舞台になる。(THE ANSWER編集部・浜田 洋平 / Yohei Hamada)