PLAYBACK! オリンピック名勝負―――蘇る記憶 第28回スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典・オリンピック。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あの時の名シーン、名勝負を振り返ります。◆ ◆ ◆ 為末大にとって、2004年…

PLAYBACK! オリンピック名勝負―――蘇る記憶 第28回

スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典・オリンピック。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あの時の名シーン、名勝負を振り返ります。

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 為末大にとって、2004年アテネ五輪は強い想いが懸かった大会だった。

 陸上男子400mハードルで五輪初出場を果たしたのは、00年シドニー五輪。当時、大学4年生だった。



アテネ五輪の男子400mハードルに挑む、為末大

 中学時代から記録を連発して注目されていた為末は、高校3年生で出場した96年世界ジュニアの400mで46秒03と当時の日本ジュニア新記録を出し、4位という結果を残した。だが、そのレースで「身長170cmの自分は世界で戦えない」と感じ、400mハードルへの挑戦を決意。その3週間後の国体では初挑戦だったにもかかわらず、同年日本ランキング5位、世界ジュニア歴代5位となる49秒09を出して、能力の高さを見せつけた。

 当時の男子400mハードルは、90年代前半から斎藤嘉彦や苅部俊二が海外レースに挑戦してレベルを引き上げていた。95年世界選手権では、予選で48秒37の当時のアジア新記録を出した山崎一彦が、決勝進出を果たして7位になり、「世界に通用する種目」として期待を集めた。

 そうした流れのなか、為末は00年に48秒47の日本学生新記録を出してシドニー五輪代表になった。そのシドニー五輪では、予選はカーブのきつい第1レーンだったが、5台目のハードルまでは自己記録を上回るペースで突っ込み、先頭でホームストレートに入ってきた。

 それは、「初めての五輪で興奮して、頭が真っ白になっていた」状態での走りだった。最後の直線は強い向かい風が吹いていた。9台目のハードルでその風にあおられ、振り上げた足をハードルにぶつけてインフィールドに倒れ込んだ。そこから立ち上がってゴールしたが、結果は61秒81の最下位。

 もし準決勝に進出し、自己ベストのタイムを記録できていれば、着順で決勝進出も果たせていたであろう。それだけに、なんとも残念な結末だった。

「あの時に悔しい思いをしたことは、ずっと覚えています。一応ゴールはしたけれども、しなかったのと同じようなものだから......。五輪という舞台でゴールできなかったのは、すごく悔しかった」

 そんなふうに振り返るほど、為末にとってシドニー五輪は悪夢のような出来事だった。

 だが、その悔しさがエネルギーになった。01年はヨーロッパを転戦して経験を積んだ。6月に日本選手権を初制覇。8月の世界選手権では、準決勝を全体の2番目となる48秒10の日本新で通過すると、決勝ではシドニー五輪銀メダルのアル・ソマイリー(サウジアラビア)に競り勝ち、47秒89と直前の日本新を更新して銅メダルを獲得した。

 アテネ五輪へ向けて再スタートを切った為末は、新たな試みにも取り組んだ。02年から03年の冬季はアメリカに練習場所を求め、ウエイトトレーニングで体づくりをした。その成果は前年の世界選手権銅メダル獲得時より7kg増の、74kgという体重になって表れた。

 しかし、その体重増のために走りが重くなったのは、外から見ていても明らかだった。結局、03年のシーズンベストは6月の日本選手権決勝で記録した48秒94で、それ以外は49秒台中盤から後半止まり。8月の世界選手権も準決勝第2組49秒37の7位で敗退と、苦悩のシーズンとなった。

 厳しい結果を受けて決断したのが、02年から所属した大阪ガスを退社してプロとなって戦う、という道だった。ヨーロッパで自分が競う相手は、賞金で生活をしているプロだ。彼らと互角に戦うために、自分にも相応の覚悟が必要だ、と為末は考えた。アテネ五輪をめざして、自分を崖っぷちに追い込んだのだ。

 覚悟を決めて臨んだ04年シーズンの出だしは順調だった。5月の国際グランプリ大阪では、シドニー五輪4位のジェームズ・カーター(アメリカ)を抑え、五輪参加A標準記録を突破する48秒87で優勝。だが、5月下旬に腰の痛みが出て、6月の日本選手権を控えた時期には全力疾走ができない状態だった。

「その頃は明らかに焦っていて、冷静じゃありませんでした。会社を辞めてすべてを五輪に注ぎ込んでやってきたのに、予選会で終わってしまうかもしれないと思った」

 それでも、その日本選手権では48秒74で優勝して壁をクリアすると、その後はヨーロッパで4試合をこなしてコンディションを上げながらアテネ五輪に向けて調整した。

 しかし、そのアテネ五輪では、8月24日の準決勝で4年前のシドニーと同じように風に泣かされる結果となった。第2組に出場した為末は風にあおられ、1台目のハードルを倒してリズムを崩した。「普通だったらああなると49秒台のタイムになるところだけど、なんとか無理やり修正したというか......」と、走りを立て直し、2位まで0秒27差の48秒46でシーズン自己ベストの3位になった。

 決勝に進出できる選手は準決勝各組の上位2着と、各組3位以下の中から記録上位2名まで。為末はその時点で、準決勝第1組の3位に次ぐ2番目の記録で、決勝進出の可能性が残っていた。だが、第3組の3位は48秒24。為末のアテネ五輪の戦いはそこで終わった。

「正直なところ、身体的な面では世界の選手に勝てないので、そういう意味では戦略を考えるしかないんです。僕が唯一、彼らに勝っていることは、調整能力だった。なのに、そこがズレてしまった。それが、すべての原因だったかなと思います。

 やっぱり大人じゃなかったんでしょうね。腰の痛みが出てちょっと(調整が)ズレはじめた時に、対処できる容量が自分になかった。悪くなった時にそこでひとまずあきらめて、1週間でもいいから治療に専念して、もう一度組み立て直すという戦略もあったと思うけど、それができなかったんです。

 考えてみれば、この1年間は冬期練習に入った時からずっと興奮していたんでしょうね。だから、腰の故障もなるべくしてなった結果です。前傾してハードルを跳んで着地する時の姿勢で腰に痛みが出ていたから、そこを攻めすぎたのかもしれません」

 レース直後の為末は、「プロアスリートとして自分の道を貫けたことに、ひとりの人間としてスッキリしている。結果が出なかったのは悔しいけれども、その反面、こういう心境で五輪に臨めたことに誇らしい気持ちもある」と話した。

 その後も為末は海外で戦い、04年ワールドアスレチックファイナルに出場してシーズンを終えると、「30歳を超えても現役でいるために、アテネで結果が出なくてむしろよかったな、とも思えます。精神的にアテネのことだけでいっぱいの状態で、とても『来年何をしようか』とまでは考えられなかったけれども、アテネの悔しさで競技に対する自分の意志がつなぎ止められた感もあります」とも述べた。

 さらに、翌年へ向けて「8月からウエイトトレーニングを一切していないんです。10何年間もずっとトレーニングをやってきて、つかなくていい筋肉もついていると思うので、それを一度完全にそぎ落として、走るときに使う筋肉だけに集中してやってみようかなと思って」と新しい試みも始めていた。

 そして、05年8月の世界選手権では、強烈な勝負師魂を見せた。

 準決勝は48秒46でギリギリの通過だったが、4年ぶりに臨む決勝は豪雨で競技が2時間中断してスタート時間が遅くなり、雨中のスタートもフライングで一度やり直しになった。そんな不安定な状況下で、為末はチャンスを見出した。

「前半から飛ばしてやろうと考えていたけど、フライングのあとで後ろを見たらみんな不安そうだった。だから、もうちょっといやらしい作戦でハメてやろうと思ったんです」

 2台目のハードルまではかなり飛ばし、その後はスピードを落として幻惑した。そして、差が詰まり始める第3コーナーから、再度スピードアップ。悪条件のなかでこそ通用する戦略的な走りを見せ、48秒10の3位でダイビングするようにゴールへ飛び込んだ。

 アテネ五輪ではメダルの夢を果たせなかったが、その悔しさを糧に翌年の世界選手権で銅メダルを獲得。その後、08年北京五輪出場を経て、12年ロンドン五輪出場を目指して戦いつづけた為末。彼にとって、04年のアテネ五輪は闘志の原点になった大会だった。