記憶に残るドライバー列伝(4)アンドレア・デ・チェザリスマクラーレンやジョーダンで活躍したアンドレア・デ・チェザリス 15年間で10チームを渡り歩き、F1に出場すること208戦。一度も勝つことができず、未勝利ドライバーの最多出場記録と18戦…

記憶に残るドライバー列伝(4)
アンドレア・デ・チェザリス



マクラーレンやジョーダンで活躍したアンドレア・デ・チェザリス

 15年間で10チームを渡り歩き、F1に出場すること208戦。一度も勝つことができず、未勝利ドライバーの最多出場記録と18戦連続リタイアという不名誉な記録を持つ男。それがアンドレア・デ・チェザリスだ。

 勲章と言えるものはデビュー3年目の1982年、当時最年少(22歳308日)で獲得したポールポジション1回のみ。速さはあるが荒々しい走りでクラッシュも多く、「壊し屋」というニックネームをつけられるほどだった。

 彼の有名なエピソードはデビュー2年目、マクラーレンに在籍していた時のこと。チェザリスの度重なるクラッシュによって巨額のパーツ代と修理代に苦しんでいたチームは、第13戦のオランダGPで予選13位を獲得した彼を決勝レースに出走させないことを決断する。マクラーレンは彼がマシンを壊すのを恐れたのだった。

 このシーズン、チェザリスはマシンを18台も破損させたというが、チームにもたらしたものは1ポイントだけだった。当時マクラーレンのボスだったロン・デニスは激怒し、シーズンが終わると、チェザリスはチームから放り出されてしまった。

 翌年アルファロメオに移籍し、2シーズンを過ごすことになるが、彼がもっとも輝いた時期だったかもしれない。82年、カリフォルニア州ロングビーチの市街地コースで開催された第3戦アメリカ西GPでポールポジションを獲得。決勝では一時トップを快走し、34周目にコンクリートの壁にぶつかるまでは2位を走行していた。

 第5戦モナコでは優勝にあと一歩まで迫るが、最終ラップでガス欠。それでも何とか3位でフィニッシュして自身初の表彰台を獲得している。

 83年の第6戦ベルギーGPでは、3番グリッドから抜群のスタートを決めてトップに立つと、アラン・プロストやネルソン・ピケを従えてレースをリードし、最速のラップを記録。最終的にはエンジン・トラブルでリタイアを喫するが、持ち前の速さを存分にアピールしたレースだった。さらにシーズン終盤のドイツGPと最終戦の南アフリカGPで2位表彰台を獲得。それが彼のキャリアで最高の成績となった。

 アルファロメオがF1から撤退すると、フランスのリジェを皮切りに1~2年ごとに中堅から下位チームを渡り歩き、成績も徐々に下降していく。彼が再び輝きを放ったのは91年、チェザリスにとって9チーム目となるジョーダンをドライブしたシーズンだった。

 30歳を過ぎ、かつての荒々しさが影を潜めたチェザリスはシーズンを通して安定した速さを見せつけ、合計4度の入賞を果たす。第11戦のベルギーGPは、予選7位という衝撃的なデビューを飾ったミハエル・シューマッハにすっかり隠れてしまったが、同じマシンをドライブするチェザリスにとってベストレースのひとつだった。

 予選では13番手とシューマッハに後れをとるが、決勝ではトップを走るアイルトン・セナを追いかけ、残り3周まで2位を走行するのだ。残念ながらエンジン・トラブルが発生しリタイアに終わるが、彼の実力が決して衰えていないことをあらためて証明してみせた。

 その後もティレル、ジョーダン、ザウバーと移籍を繰り返し、チェザリスは94年のシーズン限りでF1を引退する。35歳の時だった。

 レースになると顔をピクピクと痙攣させ、集中すると白目を剥くという変わったクセを持っていたチェザリスは、一部のファンの間では変人扱いされていたが、マシンを降りるとナイスガイで、多くのドライバーに愛されていた。

 F1引退後はモナコに拠点を置き、為替ディラーとして大金を稼ぎながら世界各地を飛び回っていたが、2014年、故郷のローマでオートバイに乗っている時に事故を起こし、ガードレールに衝突。55歳で亡くなった。

 F1では1000馬力をこえるマシンをドライブして何度も大きなクラッシュを喫しても無傷だったチェザリスが、オートバイの事故であっけなく亡くなってしまったのは驚きだった。

 若いころは派手なクラッシュやドライブミスでリタイアすることが多かったが、マシンが決まった時に見せる速さは、世界チャンピオンを経験したドライバーにまったくひけをとらないものだった。

 かつてティレルでチェザリスのチームメイトになったことがある片山右京は「マシンに乗り込むと、1周目からいきなり全開で走っていく。僕はできなかった。その度胸とセンスはすごい」と語っていた。アグレッシブなドライビングでヨーロッパのレース関係者から"カミカゼ"と呼ばれていた右京が驚くほどの強心臓と才能の持ち主だった。

 レースを盛り上げるエンターテイナーであり、意外性の男。アンドレア・デ・チェザリスは、間違いなく記憶に残るドライバーだった。

【profile】アンドレア・デ・チェザリスAndrea De Cesaris
1959年イタリア・ローマ生まれ。マールボロなどで知られるタバコ会社フィリップモリス社の重役の息子という恵まれた家庭に育ち、世界レーシングカートチャンピオン獲得。イギリスF3、ヨーロッパF2と順調にステップアップを重ね、21歳でアルファロメオからデビュー。引退するまでの15シーズンで、マクラーレン、リジェ、ミナルディ、ブラバム、リアル、スクーデリア・イタリア、ジョーダン、ティレル、ザウバーに所属する。最高位は2位で、表彰台は5回。2014年に母国のイタリアでバイクの事故で死去する。享年55歳