高校野球・名将たちの履歴書第6回 馬淵史郎(明徳義塾) 私は馬淵史郎監督に対して「勝負の鬼」というイメージを抱いていた。…

高校野球・名将たちの履歴書
第6回 馬淵史郎(明徳義塾)

 私は馬淵史郎監督に対して「勝負の鬼」というイメージを抱いていた。だが、昨年12月に明徳義塾(高知)を訪れてみて、その印象は大きく変わった。

 高校野球ファンの間で馬淵監督の名前を知らぬ者はいないだろう。

 その名は長らくヒールとして伝わってきた。1992年夏の甲子園、星稜(石川)の怪物スラッガー・松井秀喜に対して5打席連続敬遠を指示したのは馬淵監督だった。松井を抑えられる力量の投手がおらず、勝つための最善の策と判断して敬遠を選択し、目論見どおり勝利を収めた。



2002年夏に悲願の全国制覇を果たした明徳義塾・馬淵監督

 だが、試合中には甲子園球場のスタンドから物が投げ込まれ、明徳義塾の校歌斉唱時には「帰れ」コールが起きた。その後、しばらくは明徳義塾といえば、高校野球界の悪役のような位置づけが続いた。

 それでも、2002年夏には明徳義塾は甲子園初優勝を飾る。

「キャプテンの森岡良介さん(元ヤクルトほか/大阪府出身)が『高知県に優勝旗を持って帰ることができました!』とコメントしたことで、県内で明徳を見る雰囲気が変わったと聞きました」

 そう語るのは、同校OBで現在はコーチを務める川﨑新也コーチだ。

 明徳義塾は甲子園常連校となり、馬淵監督も今や名物監督になった。歯に衣着せぬコメントは報道陣の間で大人気。「明徳が甲子園に出るたびに馬淵さんの言葉を聞くのが楽しみ」という記者も珍しくない。

 とはいえ馬淵監督が常に勝負にこだわり、勝利に執着するイメージは残り続けていた。高校野球の監督は、大まかにいえば「勝負師タイプ」と「教育者タイプ」に分けられる。多くの監督は勝負師、教育者の両面の要素を持ち合わせているため完全に色分けするのは難しい。だが、馬淵監督に関しては完璧な勝負師タイプだろうと私は決めつけていた。

 私が高知県須崎市の谷底の秘境のように存在する明徳義塾・堂ノ浦キャンパスを訪ねた理由は、「野球留学生」をテーマに取材を重ねていたからだった。

 明徳義塾は日本全国から部員が集まり、共同生活を送る。中学校も併設されているため、なかには12歳から6年間を過ごす者もいる。また、全校生徒の3分の1が外国人留学生でもあり、野球部には韓国人やモンゴル人の部員も在籍する。

「師弟同行」という学校の方針のもと、教職員も敷地内で生活する不思議な空間を関係者は「明徳村」と呼ぶ。そんな生活に興味を持った私は、学校関係者を通じて馬淵監督に取材の許可をもらっていたのだった。

 ところが、挨拶もそこそこに私は馬淵監督から「取材拒否」を受ける。詳しい顛末は拙著『オレたちは「ガイジン部隊」なんかじゃない! 野球留学生ものがたり』をご覧いただけたら幸いだが、簡単に言えば私の取材趣旨の切り出し方のまずさと、デリカシーのなさが問題だった。

 馬淵監督が態度を硬化させた大きな原因は、私が「野球留学生についてお聞ききしたい」と尋ねたことだろうと思う。私自身は「野球留学生」と呼ばれる越境入学者に対して、フラットな見方をしていると自負している。いや、それは建前で、むしろ肩入れしているというのが本音だ。一部の高校野球ファンの間で「ガイジン部隊」と揶揄され、ヒール扱いを受ける彼らが不憫でならなかった。野球留学生がどのような思いで日々を過ごしているのかを書きたくて、野球留学生を多く抱える高校を回ることにしたのだ。

 しかし、「ガイジン部隊」と言われ続けた当事者が、傷ついていないはずがなかった。馬淵監督は高知大会で優勝した直後のインタビュー中、スタンドから「頼むから愛媛(馬淵監督の出身地)に帰ってください。もう満足したでしょう?」という声を浴びた経験もあるという。いきなりよく知りもしない記者に踏み込まれ、「野球留学生」という単語を使われれば、身構えるのも当然だった。

 私は馬淵監督に非礼を詫び、取材主旨を一から説明したうえで数時間後にようやく取材を許された。

「ラグビーの日本代表なんて、外国籍の選手がおっても『日本代表』ゆうて、みんな応援しとったけどね。ハーフの選手も、大坂なおみやケンブリッジ飛鳥やらが世界で活躍しとる。世界でそんな流れがあるのに、日本で『どこそこから明徳に来た』とか言ってるのは時代錯誤や」

 ひとしきり持論を語ると、馬淵監督はぽつりと「野球留学生っちゅう言葉が嫌いなんよ」と漏らした。

 馬淵監督の話を聞いたあと、チームスタッフにも話を聞かせてもらった。いずれも明徳義塾OBであり、馬淵監督の教え子である。彼らの話を聞いていくうちに、私は馬淵監督への見方が変わった。

 1982年生まれの内村英二郎コーチは熱っぽく語った。

「監督は僕にとっては監督であり、『オヤジ』なんです。明徳のファミリー感は全国を探してもどこにもないと思います」

 内村コーチは神奈川県出身。明徳義塾在学中は5季すべてでチームが甲子園出場。高校卒業後は日本大、日立製作所と進み、現役引退後は日本大のコーチを務めた。関東で結婚し、子宝にも恵まれたなか、馬淵監督からコーチの誘いを受けて明徳義塾に戻ることにしたという。

 一家で移住するとなると、相当な覚悟が必要になる。だが、実際には大きな苦労はないという。なぜなら、「オヤジ」が何かと気にかけてくれるからだ。

「監督はもちろんなんですけど、奥さんにもめちゃくちゃお世話になっているんです。僕が高校生だった頃は、熱を出した時など、本当の家族のように面倒を見てもらいました。今でも足を向けて寝られないですよ」

 1985年生まれの川﨑コーチも妻と明徳生活を送るが、馬淵監督夫婦への気遣いに感謝しているという。

「監督が夫婦で家に呼んでくださって、食事をしながらいろんな話ができるのが大きいと思います。監督夫婦が親身になってくださるので、ウチの妻も心強いようです。いくら山奥に住んでいようが、相談できる人、話せる人がいれば悩むことはないですから」

 取材中、川﨑コーチを呼び出そうと電話した内村コーチが、通話を切る間際に「家にダイコンあるから持っていってよ」と話しているのが聞こえ、吹き出してしまった。所帯じみた会話に明徳義塾の「ファミリー感」を感じずにはいられなかった。

 明徳義塾野球部は馬淵夫妻が父代わり、母代わりになり、コーチ陣、選手はみな子どもになる。過酷な部分ばかりがクローズアップされる明徳義塾の寮生活だが、そもそも魅力がなければ100人を超える部員が集まるはずがない。

 その一方で、明徳義塾中で育った有望な選手が明徳義塾高に進まず、別の強豪に進む例も相次いでいる。馬淵監督は「去る者は追わず来る者は拒まず」の姿勢を打ち出しているが、内村コーチは「そんなにウチは魅力がないかな......とショックを受けてしまいます」と本音を打ち明ける。

 それでも、明徳義塾は2019年の秋には四国大会で優勝を飾り、明治神宮大会では星稜との27年ぶりの再戦を制した。今春の選抜高校野球大会は残念ながら中止になったものの、「明徳健在」を印象づけている。

 内村コーチに言わせると「弁解せず、受け入れる人」という馬淵監督。勝利への飽くなき執念は、すでに広く伝わっているとおりだ。その一方で、こんな大家族の主という顔もあることを、この場でお伝えしておきたい。

(文中敬称略)