高校野球・名将たちの履歴書第5回 高嶋仁(智辯和歌山) 152の島々からなる長崎県五島列島のなかで最大面積を誇る福江島。…
高校野球・名将たちの履歴書
第5回 高嶋仁(智辯和歌山)
152の島々からなる長崎県五島列島のなかで最大面積を誇る福江島。海、山、空が織りなす美しい風景に特産の椿が香るこの島が、高嶋仁の故郷だ。
終戦翌年1946年の5月、一家の期待を背負い長男として生まれた。父は製氷機を設置する技術者。ただ、高嶋のなかに残る五島時代の記憶は、常に貧しさが蘇る。
福江市立福江中学で野球を始めると、3年夏の大会では島に続き、県を制覇。島始まって以来の快挙を実現したのが、急造エースの高嶋だった。

歴代最多の甲子園68勝を記録し、2018年夏を最後に勇退した高嶋監督
もともとは長嶋茂雄ファンの"サード・高嶋"だったが、夏の大会前にエースのケガで投手を任された。本人曰く、「ストライクは入らんけど、試合が終わったらなんか勝っとる。そんな投手だった」ということだが、生来の勝負強さを発揮した。
中学最後の大会で勝つ喜びを知ると、「オレは野球で勝負する」と心を決めた。
しかし、家には歳の離れた弟が二人おり、島を出るとなれば金がかかる。悩んでいた高嶋の背中を押してくれたのが母だった。
「お金のことは心配するな。やりたいようにやったらええ」
高嶋が進学先に選んだのは、長崎市内にある私立の海星高校。高嶋が中学1年の夏に初めて甲子園に出場し、中学3年時には春夏連続出場。当時、長崎でもっとも甲子園に近く、勢いのある学校だった。
入部当初は1年生だけでも100人以上おり、人数を減らすため、練習中はひたすらグラウンドの外を走らされ、先輩からのしごきも待っていた。理不尽な扱いを受けるたびに辞めたくなったが、そのたびに母を思い出し「くそったれ! こんなヤツらに負けてられるか」と、歯を食いしばって耐えた。
高嶋の持ち足は打撃と足。「6番・レフト」の座をつかんだ2年夏に初めて甲子園の土を踏む。そして開会式で味わった感動が、高嶋の人生を決定づけた。満員のスタンドをバックに入場行進が始まると、緊張で足が震えたが、感動で心も震えた。高嶋は「来年もまた来る。将来も指導者になってここに来る」と心に誓った。
ただ、この時は記念大会で出場校が多かったため、海星の試合は西宮球場で開催。甲子園でプレーすることなく初戦で敗れた(埼玉の大宮に1対7)。
「1番・センター」として戻ってきた翌年夏は、甲子園でプレーし、ヒットも記録。しかし、高嶋にその記憶はなく、覚えているのは白球を追ってひたすら外野を走り回っていたことだけ。早鞆(山口)に2対10と大敗し、2年続けて初戦敗退となった。
高校卒業後は福江島に戻った。すぐに大学進学するには経済的に厳しく、浪人を選択。ただ、浪人といっても勉強のためではなく、大学資金の足しをつくるため。日中は郵便配達員など、ひたすらアルバイトに励み、夕方からは五島高校野球部の手伝いをしながら、大学でのプレーに備えた。
翌年、晴れて日体大に合格。1年春からレギュラーになり、先輩からのしごきもきつかったが、「高校の時の10分の1」と楽々クリア。4年時にはキャプテンを務め、教員免許も取得。無事卒業となり、新任教師として赴任したのが、縁もゆかりもない奈良の智辯学園だった。
日体大野球部監督の上平雅史と智辯学園野球部監督の和泉健守は、高校、大学の先輩後輩の関係で、和泉が野球部を手伝ってくれる人材を探している最中、上平から高嶋を推薦された。
ここで待っていたのが智辯学園理事長・藤田照清との出会いだった。高嶋の野球人生にもっとも影響を与えた人物だ。ほぼ一代で智辯学園、智辯和歌山を育て上げた男は、「まあ、強烈な人やった」(高嶋)。藤田の長男で、現在、智辯学園理事長を務める藤田清司から聞いた父の人物評はこうだ。
「とにかく結果を一番に求める人。私も子どもの頃から『一番になれ、負けるな!』としか言われなかった。学校経営も、やるからには勉強も一番、野球も一番を目指せと、そういう人でした」
高嶋が藤田から"圧"を受けるのは監督になってから。赴任3年目の春、その時は唐突に訪れた。
当時、和泉が監督、高嶋が部長だったが、ある練習試合で負けたあと、観戦していた藤田がミーティングで思うことを言うと、和泉がカチンとなり「やっとれるか!」と、ノックバットを叩きつけてグラウンドを出ていった。そうなると、あとを見る者がほかにおらず、高嶋監督が誕生したというわけだ。
ここからが大変だった。高嶋が「奈良(智辯学園)での10年間は、ほんまにボロカスやった」と振り返る藤田との闘いの日々が始まった。
「なんであんなチームに負けるんや! おまえは学校を潰す気か!」
この頃、野球部員たちは直立不動で藤田から叱責される高嶋の姿をたびたび目にしている。
「なんで、野球で負けて『学校を潰す気か』って言われんとあかんのや。めちゃくちゃやなと思いながらも『勝ったらええんやろ!』と思うしかなかった」
まさに「くそったれ!」と歯を食いしばる日々が続いたが、一方で藤田の話になると、必ずこうした言葉が出てくる。
「あの人がおらんかったら、今の僕はない」
とはいえ、辞表も3度書き、藤田に渡したことがあるが、すべて破り捨てられた。
「こんなもん書く暇があったら練習せんか!」
なんとか藤田を見返したい。高嶋の闘志にますます火がつき、練習は激しさを増した。しかし、結果はすぐには出ない。「あとがない」と覚悟を持って臨んだ監督4年目の春。県大会後に事件は起きた。
2回戦で敗れた相手が宿敵・天理。高嶋が監督になってから、直接対決で5連敗となった。「同じ相手に何回負けとるんか!」と藤田の怒りが爆発。これだけに収まらず、監督交代と高嶋のコーチへの異動も決定した。
この夏は、藤田と和解して部長として野球部に復帰していた和泉が監督、高嶋部長で戦ったが、またしても県大会決勝で天理に敗れると、直後に高嶋が監督に復帰。ところが仕切り直しとなった秋、今度は選手による練習ボイコット騒動が起きた。厳しすぎる練習が理由だったが、高嶋が選手に対する思いを部員たちに伝えると解決。チームにも一体感が生まれ、県大会3位から挑んだ近畿大会でベスト8入りすると、翌春(1976)のセンバツに監督として初めての甲子園出場を果たした。
このセンバツでベスト8、翌年春にはベスト4、夏も連続出場を果たしベスト16。甲子園での戦いにも慣れ、「さあ、ここから」と意気込んだが、1978年は春、夏とも甲子園を逃し、秋も近畿大会出場を逃すと、1979年春に高嶋は監督を外され、副部長に"降格"となった。
しかも後任監督を外部から招くなど、一時的な処置でないことは明らか。しばらくすると、藤田から「来年からは和歌山や」と告げられた。1978年の春に開校した智辯和歌山への異動だった。
今となっては野球部強化のための措置とも見えるが、当時を振り返る高嶋は「左遷、左遷。クビですよ」と苦笑いする。
驚いたのは同好会レベルにあった智辯和歌山の部員たちだ。「奈良からとんでもなく怖い監督がやってくる」と評判がたち、練習初日に集まった生徒は新1年生のふたりのみ。少しずつ選手を呼び戻しスタートを切ったが、キャッチボールもままならず、「甲子園に出るには20年かかる」と思ったという。
強くするには甲子園レベルを肌で感じさせるのが一番と、蔦文也監督が率いていた池田高校(徳島)に練習試合を申し込んだ。結果は予想どおり、30何点を取られての大敗。ただ試合後、数人の選手が涙を流しているのを見て、高嶋は「甲子園はそんなに遠くないかも」と思い直した。高嶋には「選手が伸びるのは悔しさを味わった時」との持論があり、この時の選手からそれが伝わってきたからだ。
そして智辯和歌山の監督になった6年目、1985年のセンバツで初出場を果たす。そこから5度の甲子園はいずれも初戦敗退だったが、1993年夏に甲子園初勝利を挙げると、翌年のセンバツで初優勝。一気に智辯和歌山時代の幕が開いた。
しかし、日本一を達成してもひと息つかせないのが藤田だ。初優勝の報告の際には「甲子園にはもう1本の優勝旗があるやろ」言われ、1997年に悲願の夏制覇。2000年夏にも圧倒的な攻撃力で通算3度目の日本一を達成した。
すると今度は、藤田の案で優勝記念のプレートが学校の敷地内に飾られ、そこには過去3回の優勝メンバーの名が刻まれていたが、ほかにあと3回分のメンバーを記せるスペースが残されていた。
「ひと目見て、何を言いたいのかがわかりました。だから『また勝ったらええんやろ』と(笑)」
しかし、そこに名前はいまだ記されていない。2000年夏の優勝以降、智辯和歌山は甲子園には出るが、勝ちきれなくなっていった。さらに2009年の12月、藤田が80歳でこの世を去った。翌年のセンバツで甲子園通算59勝の新記録を達成したが、高嶋の心に大きな穴が空き、年齢からくる衰えや体の不調を少しずつ感じるようになってきた。
次第に"幕引き"も考え始めていたが、そんな高嶋に「くそったれ!」の気分を久しぶりに味あわせ、奮い立たせたのが大阪桐蔭だった。
同じ近畿でしのぎを削り、智辯和歌山と大阪桐蔭は2017年春の近畿大会から、夏の甲子園、秋の近畿大会、2018年のセンバツ、春の近畿大会と連続して公式戦で対戦し、智辯和歌山は5連敗。高嶋のなかで敗れるたびに「打倒・大阪桐蔭」への思いが強まり、2018年夏に向かった。ちなみに、2018年のセンバツは決勝で敗れており、「夏の甲子園でリベンジする」というのが高嶋のモチベーションになっていた。夏の大会が始まる前、高嶋はこのように語っていた。
「甲子園の決勝で当たったら、そら最高や。まあ、向こうは普通に勝ってくるやろうから、問題はこっちや」
結果はある意味、高嶋の予言どおりになった。大阪桐蔭が全国制覇を達成したのに対し、智辯和歌山は初戦敗退。リベンジどころか、再戦も果たせなかった。そして大会後、高嶋はユニフォームを脱いだ。
あらためて思うことがある。甲子園最多の通算68勝は「なぜ高嶋だったのか」ということだ。ある時、最近は負のイメージでとらえられている"勝利至上主義"について、高嶋に聞いたことがある。すると、高嶋はこう返してきた。
「勝負やろ? 勝つか負けるかやろ? 勝つこと以外に目指すもんなんか、何があるんや」
生きるか死ぬかの空気が残る世に生まれ、そこで野球と出会い、勝つか負けるかの勝負を繰り返してきた。ただ、ひとつ忘れてならないのは、本気で勝利を目指し、本気で日本一を目指すなかで、高嶋は子どもたちに人生を生き抜くための"耐える力""挑む力""あきらめない力"を自ら示し、伝えてきたことだ。
高嶋に名将たる何かがあるとすれば......それは理論や戦術などではなく、勝ちに対する並外れた執念、野球に対する真摯な姿勢にいきつく。「くそったれ!」と幾多の難敵に挑み、壁を乗り越えた先の68勝。やはり、高嶋だからこそ成し得た数字なのだろう。
(文中敬称略)