陸上女子短距離の御家瀬(みかせ)緑は、この春に北海道恵庭北高校を卒業したあと、大学へは進まず住友電工陸上競技部に入り、実業団選手として五輪出場を目指す道を選んだ。2019年6月の日本選手権女子100mで初優勝を果たした御家瀬緑(中央)…
陸上女子短距離の御家瀬(みかせ)緑は、この春に北海道恵庭北高校を卒業したあと、大学へは進まず住友電工陸上競技部に入り、実業団選手として五輪出場を目指す道を選んだ。
2019年6月の日本選手権女子100mで初優勝を果たした御家瀬緑(中央)
高校最後の年だった2019年、調子を上げながらも思い描いた結果まではたどり着けなかった。6月の日本選手権女子100mでは、29年ぶりの高校生女王に輝き、8月のインターハイの際は、100m準決勝で高校歴代2位の11秒50を記録。決勝では11秒51の記録で大会連覇を果たした。そのあとは、日本高校記録(11秒43)の更新を目指し、10月のU20日本選手権では11秒3台の記録を目標にしていた。
しかし、9月の北海道ハイテクAC杯で11秒46の自己新を出したものの、その後は足首に不安が出て、国体はリレーのみの出場となり、U20日本選手権は欠場。不完全燃焼な結果に終わった。
今年1月末に、御家瀬は昨年を振り返り、こう話した。
「高校記録までいく自信はあったんですが、ちょっと調子に乗りすぎたというか、練習を詰めすぎてしまったのは自分のミスでした。11秒4台前半を出してシーズンを終わろうと思っていたけど、もともとシーズン前の目標は11秒4台だったので、後悔はしていないです。ただ、11秒46の走りを経験してからは11秒3台もちょっと見えた感じがしていたので、今年(19年)出せるな、という思いも実はちょっとありました」
御家瀬が、大学に進まず実業団で陸上を続けようと考え始めたのは、高校3年になる頃だった。
「大学に行こうか迷ったときもあったけど、ちょっとピンとこなくて、どうしようかなと考え、私から住友電工に『お願いします』と話して決まりました。周りを見ていて、大学で伸び悩む選手が多いのも不安でしたし、高校を卒業した18歳から22歳までの4年間はすごく長いし……。
そこが一番成長できる大事な期間かなと思ったので、そこで力を伸ばしたいと考えました。勉強することも大事だけど、絶対に逃げられない環境で陸上一本に集中したい、という思いのほうが強かったんです」
当初は父・典之さんが大学へ進んでもらいたがっていると感じ、迷うところもあったと御家瀬は言う。小さい頃に陸上をやっていた兄と姉が、ともに大学院まで進んでいたということもあった。それでも実業団へ行きたいという気持ちは消えなかった。
その意向をくんだ典之さんは、「ここまで来たら、『本当に陸上に専念できる環境があるのならば、そちらへ行かせてあげたい』と考えるようになった」と振り返る。
御家瀬自身も「他人とは違う道を行きたいタイプなので、そんなに躊躇はなかった」と笑顔を見せる。
そのような考えに至った根底には、小学6年で北海道ハイテクジュニアに入って身近で見た、福島千里(セイコー)の存在もあった。福島は高校を卒業して北海道ハイテクACに入ると、2年目に100mで11秒36の日本タイ記録を出して北京五輪に出場。翌09年には11秒2台に入り、10年には日本記録を11秒21にまで伸ばして、日本の女子短距離界を牽引してきた。御家瀬は、福島が残したその足跡を追いかけたい、という気持ちになったのだ。
「今になると、福島さんのすごさを実感するけど、ハイテクジュニアに来て、間近で見たときはただ圧倒されて、『あんなふうに走れるんだ……』と感動して憧れるだけでした。福島さんは、動き自体が違うというか、誰にもマネのできない唯一無二な感じの走りがカッコよかったです。
だから、福島さんのような走りをマネして取り入れようとしたし、それに自分の走りをプラスすることで、さらに上へ行きたいとも思っています。記録が伸びてくるにしたがって自分の体の動きにもキレが出てきた感覚もあるので、このキレをもっと極めて自分の理想に近づけていきたいと思っています」
また、御家瀬が住友電工に惹かれた理由のひとつに、同じ北海道出身の小池祐貴が臼井淳一コーチの指導で一気に記録を伸ばしてきたということがある。御家瀬は、冬の間に恵庭のインドアスタジアムで練習をする小池の姿を時々見ていた。「本数が多くて距離も長く、きつそうだったけど、ゆっくりした感じの走りで、あまりやったことがない練習という印象でした」。
小池は、高校時代から自分で考えて練習をしてきた選手だ。御家瀬を高校まで指導していた中村宏之監督も、選手の自主性を重視して自分で考えさせる指導法である。だからこそ、御家瀬も感じるものがあったのだろう。
「臼井コーチと話をしたとき、『全力を出さない練習方法で余裕を持って自分の距離(100m)を走り切るようにしなさい』と言われました。自分にはそこ(フォームを意識しながら、スピードは追求しない練習)が、足りないところだったので、それを補えると思ったし、ケガを減らすこともできるとおっしゃっていたこともすごくいいなと思いました。
そういった練習をすることでフォーム自体も綺麗になると思うし、大会まで全力を出さずに力を溜めて一気に(大会で)バーッと出すほうが自分にも合っていると感じました。今までとは違う指導法だけど、中村監督にここまで育てていただき、そのあと臼井コーチの指導を受けることにすごく魅力を感じました。
臼井コーチは走り幅跳びの元日本記録保持者なので、走り幅跳びもやりたいと思っている私の特性もしっかり生かしてもらえるのかな、とも思っています。臼井コーチの下なら自分の力を伸ばして強くなれると思ったので、教えてもらいたいと思いました」
昨年11月に脚を痛めた御家瀬は、骨挫傷と診断を受けて2カ月間走ることができず、1月末になってやっとジョギングができる程度という状態だった。この段階での目標は、4月末の織田記念から試合に出始めて、秋までに11秒2台を出したい、というものだった。
3月に入って上京した御家瀬は、ナショナルトレーニングセンター(東京北区)を拠点に練習をする予定を組んでいた。しかし、新型コロナウイルス感染拡大防止のために発令された緊急事態宣言を受けて、4月から施設は閉鎖されることに。その結果、競技場での練習は控えつつ、できる範囲での練習を続けている。
「今は、スピードよりフォームや感覚を意識するトレーニングが多く、そのたびに動画を確認しながらやっています。コーチからはその時々の修正点やよかった点を指摘してもらい、走りの中の無駄な動きを徐々に減らしていけるように意識して練習しています。コーチの下で練習して目標に向かっていこうという意志は今までよりも強くなりました」
東京五輪に関しては「チャンスがなくもないかな」という程度で、「間に合わないかもしれない」という気持ちのほうがむしろ強かった。だが、五輪が当初の2020年から2021年へと1年延期されたことで準備期間も増え、「目指せる!」という意欲が湧いてきたと話す。
それでも御家瀬がメインとして考えているのは、2024年パリ五輪だ。そのためにも11秒2台を早く記録して、世界の舞台へ遠征したいという。
さらには、こんな思いも胸に秘めている。
「ユース世代からもどんどん速い選手が出てきていますが、福島さんが作ってくれたいい波を再び自分が作り出して、それをしっかりと引っ張っていけるようになりたい。実業団で結果を出し、若い世代の選手たちの進路も選択肢が増えるようになればいいなと思います」
今は、世界中の多くのアスリートが新型コロナウイルスの影響で、活動自粛を余儀なくされている。そんな困難も、御家瀬緑には高い目標の達成に向けてじっくりと底力を蓄えていく、有用な時間として反転活用をできそうだ。