僕はこうして逆境を乗り越えてきた 〜 小林悠(川崎フロンターレ)〜 チームは活動自粛中とあって、家で過ごす時間も長くなっ…
僕はこうして逆境を乗り越えてきた 〜 小林悠(川崎フロンターレ)〜
チームは活動自粛中とあって、家で過ごす時間も長くなっているだろうが、オンライン会議システムを活用して画面越しに再会した小林悠の表情は明るかった。

小林悠に苦悩した時期を振り返ってもらった
「家にベランダがあるので、太陽の光を浴びながらトレーニングしています。といっても、体幹トレーニングが中心ですけどね。
あと最近、縄跳びもしているんです。音楽を聞きながらやっているんですけど、最初は1曲分跳ぶだけでも(体力的に)きつかったのが、今では3曲分くらいぶっ続けで跳べるようになりました。これも、ちょっとした成長なんですかね(笑)」
コロナ禍における川崎フロンターレの取り組みとしては、ピコ太郎が公開した手洗いソング『PPAP-2020-』を中村憲剛がカバーした動画が話題になった。小林もそのバトンを受け取る形で動画を公開すると、次につなげた。
それ以外にも、ファンやサポーターと触れ合う機会が減っていることから、高校時代の同級生でもある太田宏介(名古屋グランパス)とクラブの垣根を越えてインスタグラムでライブ配信を行なったり、自身を深く知ってもらおうと『note』にこれまでのキャリアをつづったりもしている。
「時間があるということと、サッカー選手である自分の言葉を発信することで、今32歳ですけど、子どもたちやサッカーをやっている少年・少女の保護者たちにも参考になればなって。自分自身、努力はしてきましたけど、いろいろな運というか紆余曲折があって、こうしてプロサッカー選手になれたので」
足跡を辿れば、中学生の時にはJクラブのセレクションに合格できず、麻布大学附属渕野辺高校(現・麻布大学附属高校)へと進んだ。その後、進学した拓殖大学では1部ではなく2部でプレー。川崎への加入が決まった直後に、右ひざ前十字じん帯を損傷する大ケガを負ったこともあった。
2017年にはJ1得点王に輝き、2度のJ1優勝を経験。昨今みせる活躍の一方で、苦悩した時期とはいつだったのだろうか。
「取材を受ける前に、自分にとって苦しい時期っていつだったのかなって考えたんですよね。やっぱり大学生時代のケガかな、とも思ったんです。
でも、今思うと、ケガは治るもの。そう考えると、たいしたことはなかったのかなとも思うんです。だから、自分がどん底を経験したのはやっぱり……2012年になるんですかね」
その年、シーズン序盤から成績不振に陥った川崎は、早々に監督交代を決断すると、風間八宏監督が新指揮官に就任した。2011年にJ1で12得点をマークした小林は、FWとして自信をつけ、意気揚々とプロ3年目を迎えていた。
「前十字じん帯を損傷する大きなケガが治って、プロの世界で試行錯誤して、自分としてもワンタッチゴーラーとしてのプレースタイルを確立できてきたところだったんです。ペナルティエリアの中で相手と駆け引きして決める。そのプレースタイルで勝負していこうと思っていた。
そのタイミングで風間さんが監督になり、右サイドで起用されるようになったんです。それで一気に何もできなくなってしまったというか、お手上げ状態になってしまったというか……」
高校時代はサイドハーフでプレーしていたこともある。大学でもドリブルは得意なプレーのひとつでもあった。ただ、FWとして大成しようと”ワンタッチゴーラー”としての自分を見出した矢先に、右サイドへ転向。小林はプライドを傷つけられ、自分自身をも見失った。
「何もかもがうまくいかないというか。ちょうど結婚したばかりだったんですけど、家に帰れば毎日毎日、愚痴を言っていましたね。
監督に対する文句を口にしてしまうこともあれば、すべてにおいて真ん中でプレーできないことのせいにしていたんです。今だから言えますけど、2012年の終わりごろには移籍も考えて、とにかく現状から逃げ出したいなって、すごく思ってました」
光りが見えないまま、小林の2012年は終わった。「もしあの時、移籍することになっていたら、自分の人生はどうなっていたんだろうと思うこともあります」と振り返る。
ただ、2013年を迎えるにあたって、小林は決意した。
「監督も続投になり、自分も移籍しないのであれば、右サイドで生きていくしかないなって思ったんです。それでノートを引っ張り出してきて、そこに『絶対に言い訳をしない』『人のせいにしない』って書いたんです」
それは誓いでもあった。
小林は、外に向いていた矢印をすべて自分に向けたのである。どうしてそう思うことができたのか。聞けば、こう教えてくれた。
「逃げたくなかったんですよね、やっぱり。結婚して間もなかったですし、このままだとクビになってしまうかもしれない。サッカー選手としてやっていけなくなるかもしれない。その危機感もありました」
独り身ではなくなったことも、奮起するうえでは追い風になった。
「まずは『右サイドでプレーさせられている』という概念を取っ払ったんです。右で試合に出ようが、ゴールを決めればいいんだって考えました。点を獲らなければ、自分はサッカー選手として生きはいけないと思っていたので、逆サイドからのクロスにどう入るか。
当時は左サイドにレナトがいたので、そこからクロスが上がってくることが多かった。ワンタッチで得点することが得意ならば、それにヘディングで合わせる。もしくは右にいないで中に入って行ってしまえばいいんじゃないか、とすら思っていました」
思考の転換である。自身が嫌悪していた右サイドという概念をなくしたことで、ポジショニングも変われば、視野も大きく開けた。
「それでちょっと点が獲れるようになってきたら、何ごともいい方向に発展していったんですよね。びっくりすることに、ドリブルでも仕掛けられるようになっていった。高校時代というか、昔の感覚も戻ってきたんです」
聞く耳も持ったことで、指揮官の言葉も、頭にすっと入ってくるようになった。
「認めてもらえなければ試合に出られないので、言われたことは全部、受け入れて取り組もうとしたんです。そうしたら、ボールを”止めて蹴る”技術が格段に向上して。
ボールを止めることがうまくいくと、パスを出す時も顔が上がっているから余裕が出てくる。トラップもいい位置にボールを置くことができるから、さらにゴールも決められるようになって。あの(2012年の)半年間は何だったんだろうなって思うくらい、本当にすべてが好転しました」
吸収しようとすれば、いくらでもうまくなれる。「1年で5年分くらい、うまくなったように思います」と小林は笑った。
「それまでは正直、早く練習終わらないかなって思っていたんですけど、そんなやつが1日1回もミスしない選手になりたいって思うようになるんだから、不思議ですよね。姿勢が違うだけで、スキルアップしていくスピードもまったく違った。
風間さんに『どんなに悪いパスであろうが、自分がボールに触れたのであれば、それを処理できなかったら自分のミスだ』って言われたことがあるんです。これは今も好きな言葉で、それを聞いてサッカーの感覚が一気に変わりました」
2016年7月17日、アウェーで行なわれたJ1リーグ2ndステージ第4節のジュビロ磐田戦だった。0−1で迎えた64分、大島僚太の縦パスに合わせてDFの裏へと走り込んだ小林は、左足で華麗にトラップしてみせると、次の瞬間、右足でGKの頭上を越える同点弾を決めてみせた。
「以前までの自分だったら、DFに寄せられていたので、そのままシュートを打っていたと思うんですよね。でも、DFとGKの位置を見たら、ピタっとボールを止めることさえできれば、より確実にゴールを決められるなって思ったんです。
あの時、DFとGKがスローモーションのように見えたんです。それもこれも、自分の技術ならばボールを止められると思えたからなんですよね」
確実に成長していたし、うまくなっていた。それが2017年のJ1得点王であり、J1初優勝、さらには翌年のJ1連覇へとつながってもいた。
今シーズン、小林は再び右サイドでプレーする機会が増えそうだが、そこに抵抗もなければ、不満もない。
「むしろ、今は右サイドのほうが点が獲れるんじゃないかと思っているんですよね。そう考えると、人生ってつながっているというか。面白いですよね」
多くの人が外出自粛生活を送っていることだろうが、小林の経験はきっと自身に当てはめることもできるだろう。小林は言った。
「与えられた環境のなかで、言い訳することなく、そのなかで自分に何ができるかを探すことが大切だと思うんですよね。それができれば、外に向いていたエネルギーを全部、自分のために使うこともできるんです。それだけでも、自分にとってはすごくプラスじゃないですか」
矢印を自分に向けてみる。そこに答えがある気がした。