Jリーグ27年からチョイス!『私のベストチーム』第1回:1996年の横浜フリューゲルス 1993年にスタートしたJリーグ…
Jリーグ27年からチョイス!
『私のベストチーム』
第1回:1996年の横浜フリューゲルス
1993年にスタートしたJリーグは、当初ガリー・リネカー(イングランド)やピエール・リトバルスキー(ドイツ)、ラモン・ディアス(アルゼンチン)といったビッグネームが数多くプレーしていた。

ブラジルトリオが力を発揮し、バランスの取れた攻撃サッカーを見せた、1996年の横浜フリューゲルス
もちろん、ブラジル人選手も例外ではない。ブラジルは1994年のワールドカップアメリカ大会で24年ぶりの優勝を飾ったが、優勝メンバーの多くがJリーグでプレーすることになった。欧州サッカー界が放映権料で潤って、移籍金や年俸が高騰する前の90年代には、ブラジルのスターたちは移籍先としてJリーグのクラブを選んだのだ。
横浜フリューゲルスで活躍したジーニョは94年のワールドカップ優勝メンバーで、96年には29歳とキャリアのピークを迎えていた。テンポの速さが大きな魅力で、トップ下の位置から繰り出すジーニョの鋭いショートパスは、相手の守備を何度も切り裂いた。
同じくフリューゲルスでプレーしたボランチのセザール・サンパイオは、ワールドカップでは代表からはずれたものの、90年代を通じてセレソンの一員として活躍しつづけた選手で、クレバーな守備で貢献。そして、FWのエバイールもやはりブラジル代表経験のある選手だった。
3人が加入したのは95年のことだったが、フリューゲルスの基礎を築き上げた加茂周監督が日本代表監督就任でチームを離れたこともあり、チームは低迷してしまう。だが、96年にブラジル人のオタシリオが監督に就任すると、ブラジルトリオは輝きを取り戻し、フリューゲルスは前半戦を首位で折り返した。
もし、Jリーグが前年までのように2ステージ制で行なわれていれば、「ファーストステージ優勝」というタイトルを獲得していたはずだ。だが、この年のJリーグは1ステージ制で行なわれ、フリューゲルスは最終的に3位に終わってしまった。しかし、この年のフリューゲルスのバランスの取れた攻撃サッカーは、長く語り継がれるべきだろう。
3人のブラジル人と並んで「躍進」を支えたのは、日本代表クラスの個性あふれる選手たちだった。
中盤でサンパイオと組んだのは、加茂前監督の秘蔵っ子とも言われた山口素弘で、相手のエースをマークしたかと思えば、時には守りをサンパイオに任せて自ら攻撃に参加し、意外性あふれるパスで決定機を演出した。
左サイドで攻撃を組み立てたのは三浦淳宏(現・淳寛)で、ドリブル突破で相手陣に切り込むだけでなく、技巧的なFKやロングスローでも見るものを魅了した。
ゴールを守るのは、Jリーグを代表する守護神、楢﨑正剛。同じ横浜に本拠地を置いた横浜マリノスの川口能活とは、日本代表でも正GK争いをつづけ、楢崎はのちに631試合というJリーグ最多出場記録を樹立することとなる。ちなみに、2020年の開幕節でその楢﨑の記録に並んだ遠藤保仁(ガンバ大阪)が、フリューゲルスに入団してプロデビューを果たすのは98年のことだ。
96年と言えば、日本代表が28年ぶりのオリンピック出場を果たし、アトランタ大会の初戦でブラジルを破る「マイアミの奇跡」を成し遂げたのだが、キャプテンとしてU-23日本代表を引っ張ったのがフリューゲルスのFW前園真聖だ。この年の前園はフリューゲルスでも輝きを放ち、キレのあるドリブルで相手の守備陣を崩して、リーグ戦、カップ戦合計で15ゴールを決めている。
この年の5月、フリューゲルスは東京・国立競技場で鹿島アントラーズと対戦した。
アントラーズにも94年のブラジル代表の主力だったジョルジーニョとレオナルドがおり、両チームのブラジル人選手は対抗意識をむき出しにして戦い、華麗なテクニックと激しいぶつかり合いが交錯する、すばらしい試合を展開した。
53分にジョルジーニョのクロスをマジーニョがヘディングで決めてアントラーズが先制すれば、74分にフリューゲルスはジーニョがFKを右上隅に決めて1-1で終了。最後はフリューゲルスがPK戦を制したが、これはJリーグ史上でも最高の試合の一つだった。