「とにかく悔しかったんです」   そう語った男は努力の積み重ねで今もグラウンドに立ち続けている。 身体障がい者野球チーム「千葉ドリームスター」の土屋大輔は強い反骨心で不可能を可能にしてきた。 高校時代に交通事故で右腕の神経を損傷。 以降…

「とにかく悔しかったんです」
 
そう語った男は努力の積み重ねで今もグラウンドに立ち続けている。

身体障がい者野球チーム「千葉ドリームスター」の土屋大輔は強い反骨心で不可能を可能にしてきた。

高校時代に交通事故で右腕の神経を損傷。
以降、日常生活や野球は左手で行っている。
 
放たれるボールの勢いと正確なスローイングがハンデを感じさせない。ボールを捕ったら、そのまま上へ舞い上げる。その間にグラブを離しボールに持ち替えスロー。野球未経験から始めたとは思えない軽快なプレーが努力の証である。

交通事故で右腕に障がい

高校時代はグランドホッケー部に所属し、インターハイや国体にも出場した。高校3年時、部活動を引退して間もないころだった。バイクに乗っていた際に交通事故に遭った。目が覚めた時には病院のベッドの上にいた。
 
「全く記憶にないんです。気がついたら病院のベッドの上にいました。『この辺りで事故に遭ったんだよ』と言われてもいまだに何も思い出せないです」
 
後に聞かされたのが、「腕神経叢(わんしんけいそう)損傷」というものだった。
交通事故の際に首を強く打った衝撃で脊髄から右上腕神経の神経根が引き抜ける「引き抜き損傷」で、以降は左手のみの生活を強いられることになった。

17歳の青年に突如突き付けられた現実。障がいを受け入れることに悩むのは想像に難くなかった。
 
「(障がいを受け入れるのに)時間かかりましたね、私の場合は。使わないと腕って細くなるのでそう見られること自体が嫌だったりとか。今は全然そんなこと思わないですけども最初は抵抗ありましたし、コンプレックスでした」

自信になった一人暮らし

右腕が使えないというコンプレックスを抱えながら、自らの行動で徐々に気持ちを切り替えていった。特に大きかったのは大学入学後だったという。
 
「一番最初に『頑張れるかな』って思うようになったのは大学生の時です。親の協力もあって一人暮らしを始めたのですが、生活をいろいろ工夫しながら4年間過ごして。これを続ければ、ちゃんと働いてやっていけるだろうと感じました。まず一人暮らしできるようになったことがすごく大きかったですし、自信になりましたね」
 
大学を卒業後、千葉県内の市役所に就職。休日にはフットサルを始めた。
地元の同級生とチームを作るなど、精力的に体を動かした。仕事と運動を両立し、壁を乗り越えていった。

33歳、野球への挑戦

好きなスポーツを続ける中、転機が訪れる。2011年2月に読売新聞に掲載されていた市川ドリームスター(当時)の選手募集記事に目を引かれた。

チームを知るきっかけとなった選手募集記事 (11年2月25日 読売新聞紙面より)

ただ、やってみたいと思う一方で学生時代を通じて野球の経験がなかった。障がいも右腕であるため複雑な思いを抱いていた。
 
「野球はすごく好きなんですけど、まさか片手で野球ができるってことは考えていませんでした。ただ、気持ちのどこかにずっと残っていて。『やってみたいな』って」
 
バットもグローブも持っていない。でもなんとなく募集の記事は切り抜いて取っておいた。約3か月後、心の奥底に引っかかっていた想いが動き始めた。
 
7月頃、思い切ってチームに連絡をして練習に参加した。そこはどんな光景だったのか。
 
「左手なのでボールも投げられなかったんですけども、試しに見てみようと思い行きました。来てみると自分より障がいの重い人たちもいたのですが、みんな明るく野球をやっていたんです」

入団時に感じた明るい雰囲気は今も変わらない

その時は、同じ身体障がい者野球チームである「東京ブルーサンダース」の選手たちがサポートに来てくれていた。片手でのプレーを間近で見たときの心境を交えて続けた。

「初めて来た時に、片手でプレーするための工夫をいろいろ教えてもらいました。『絶対俺にはできないな』って思うプレーを見せられとても衝撃を受けたのですが、同じ障がいを持っている人のいいお手本を見て刺激になったのでやってみようと思いました」

当時33歳。“オールドルーキー”の野球人生が幕を開けた。

悔しさを糧に猛練習、主力選手へ

最初に出た練習では楽しいと感じた一方で、左手で満足にボールを投げられず悔しい気持ちも強く残った。
 
「とにかく悔しかった。できないこと自体が悔しかったので、地元の幼なじみを公園に呼んで、次の練習の前などに左手で投げる練習に付き合ってもらいました。キャッチボールから始めましたね」
 
左手で投げられない悔しさと初めてプレーを見た時の衝撃がモチベーションになった。チームの活動以外でも休日の合間を縫い練習を続けた。その中で自身の考えに変化が出てきたという。

「山なりで大したボール投げられないのを公園で見られるのも嫌だったんですけど、仲間が『全然いいよ、恥ずかしくないからやろうよ』って言ってくれて。(グラブを外してボールをその手で持ち替える)ワンハンドキャッチもできるようになってからは恥ずかしさもなくなりましたし、自分の視野がすごく広がりました」 

地道な練習でスローイング技術を習得した(本人提供)

上達を実感することで喜び、そして自信へつながった。チームの盛り上げ役となっている姿からは想像できないが、「元々すごく根暗なので(笑)」と自ら話す性格が野球を通じてさらに明るくなったと語る。
 
努力の積み重ねは結果となって現れた。課題だった左手でのスローイングは中堅から二塁手へと届くまでになり、最初に見て衝撃を受けたというワンハンドキャッチも試合で出来るまでになった。

“自分だからできる野球”がある

バッティングでも投げる同様、左手一本で振っているがそこで苦労することがある。
 
「やるからには大きなホームラン打ちたいとか最初は思ってましたが、両手の選手には敵わない。ほんの少しのタイミングのずれでボールに負けてしまいますし、引きつけただけだど最後押し返すことができない感覚があるので、すごく難しいですね」

バッティングでは自身の特性を活かしている (本人提供)

バットは、大人用の一番軽い重さを使っている。今後は少年用の重いバットを使うことを検討するなど、自身の持つ障がいと向き合いながら試行錯誤を重ねている。意識の面では、自分の特性を活かすよう心掛けているという。

「片手しか振れないから活躍できないかと言うと決してそうではなくて、私だからできる野球があります。相手のウィークポイントを意識したり、空いてるエリアに打つように心がけています」

攻守でチームの中心選手に

工夫と練習を重ね、技術は向上していった。入団初年度からしばらくメンバーが9人揃わない状態が続いたが、遊撃手を中心にプレーを続けた。

現在は主に中堅手、時には遊撃手などと内外野をこなし、打ってはリードオフマンとして攻守でチームに欠かせない選手へと成長。チーム発足以来、レギュラーを守り続けている。

昨年の関東甲信越大会では敢闘賞を受賞した

昨シーズンも、主に1番・中堅で切り込み隊長としてけん引した。チームが準優勝に輝いた8月の関東甲信越大会では敢闘賞を受賞し、個人での初タイトルを獲得した。41 歳となった今でもまだまだ上達の途中にある。

そして、活躍はグラウンド内だけにとどまらない。
次週、土屋のさまざまな挑戦に迫っていく。

(取材・文 / 白石怜平)

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