日本プロ野球名シーン「忘れられないあの一打」第7回 ヤクルト・長嶋一茂 プロ初ヒットがホームラン(1988年) 立教大学…

日本プロ野球名シーン
「忘れられないあの一打」
第7回 ヤクルト・長嶋一茂 
プロ初ヒットがホームラン(1988年)

 立教大学時代、東京六大学リーグでプレーした4年間で放ったホームランは11本。当時、田淵幸一が持っていた最多記録の22本には及ばないが、大砲としての存在感は十分だった。野球マンガ『ドカベン』に登場する手強いライバルのような分厚い体、ときどき放たれる豪快なホームラン。肩が強くて、足も速かった。

 タイムリーエラーで試合を面白くするのはご愛敬(内野フライが大の苦手だった)。「"ミスタープロ野球"長嶋茂雄の長男」という要素を差し引いても、長嶋一茂は1980年代半ばの東京六大学に欠かせないスター選手だった。



プロ初ホームランを放ったヤクルト1年目の長嶋一茂

 筆者が立教大学野球部に進んだのは、一茂から遅れて2年後の1986年4月。まだまだ上下関係の厳しい時代に、新入生が上級生と言葉を交わすことなどできるはずがない。優勝から20年以上遠ざかっていた立教大はスポーツ推薦制度などなく、戦力的には他の強豪大学よりも劣っていた。そのなかにあって、一茂は堂々たるレギュラーであり、東京六大学の看板選手でもあった。本来であれば呼び捨てにすることなど許されるはずはないが、本稿では勇気を振り絞って、敬称を略す。

 1987年ドラフト会議で2球団から1位指名を受けた一茂は、ヤクルトスワローズに入団することになった。背番号はもちろん「3」。神宮球場で育ったスターが、そこを本拠地とする球団で本物のスーパースターになることを、日本中のプロ野球ファンが望んでいたと思う。2学年下の私もそのひとりだ。

 プロ野球と大学野球とのレベルの差であるとか、レギュラー争いの過酷さなど、部外者にはわかるはずがない。半年前まで同じ寮に住み、同じポジション(サード)を守っていた後輩として、ただただ先輩の活躍を願っていた。いや、信じていた。

 鳴り物入りで入団した"ドライチ"は春季キャンプでも一軍メンバーに入り、オープン戦で打率3割をマークした。元メジャーリーガーのダグ・デシンセイがライバルだったが、「一茂さんならやってくれるはず」という根拠のない期待があった。

 しかし1988年シーズンが開幕しても、一茂のバットから快音は聞こえない。それまで、7打席ノーヒット。4月27日、神宮球場での読売ジャイアンツ戦。6回1アウトで代打に出た一茂に、神宮球場の大観衆が声援を送った。マウンドに立つのは元メジャーリーガーで剛球投手のビル・ガリクソンだった。

 初球は胸元近くに外れてボール、2球目はアウトコース高めを見逃して2ボール。3球目の内角ストレートがストライク。4球目を空振りして、追い込まれた。カウント2-2からの5球目を強振すると、打球はセンターバックスクリーンに飛び込んだ。

 野球部の寮にいた私は、足早にベースを駆ける一茂の姿をテレビで見ていた。寮のすべての部屋から、神宮球場に負けないほどの歓声が上がったことは言うまでもない。プロ初ヒットが、元メジャーリーガーからのホームラン。スーパースター誕生を予感させるのに十分な"事件"だった。

 しかし、一茂は長嶋茂雄にはなれなかった(プロ野球史上、誰も長嶋茂雄のようなスター選手にはなれていないが)。プロ1年目は88試合に出場して、打率.203、本塁打4。その後も、レギュラーを奪うことはなかった。

 東京六大学のリーグ戦中、神宮球場でスワローズの選手たちとすれ違う機会が何度かあった。私は厚かましくも一茂本人に対して、「プロ野球はすごいんですか?」と尋ねた。「おまえ、大学とプロじゃ違うよ。広島の大野(豊)の球なんか消えるぞ。全然、見えないから」と言われたことを覚えている。

 1993年、父親が指揮を執っていた読売ジャイアンツに移籍。親子で同じ球団のユニフォームを着たことが話題になったものの、1996年限りで現役を引退した。プロ7年間で放ったホームランはわずか18本。変化球に泳がされ、速球に差し込まれる場面ばかりを見たような気がする。

 現在、タレント、コメンテーターとして活躍する一茂は、プロ初ホームランについて、「目をつぶって打ったら当たっちゃった」と語っている。あれは本当にマグレだったのだろうか......。

 バックスクリーンに飛び込むホームランに、私は"長嶋茂雄復活"の夢を見た。はかなく消えてしまったからこそ、30年以上前のあの一本が忘れられないのかもしれない。