欧州スター選手列伝極私的バロンドール(2)ゲオルゲ・ハジ(1994-95) 身長は173cmと小柄。ルックスはお世辞にもかっこいいとは言えない。どちらかといえば悪役に近いふてぶてしい顔立ち。それがひとたびボールを持てば、繊細かつ大胆なプレー…
欧州スター選手列伝
極私的バロンドール(2)
ゲオルゲ・ハジ(1994-95)
身長は173cmと小柄。ルックスはお世辞にもかっこいいとは言えない。どちらかといえば悪役に近いふてぶてしい顔立ち。それがひとたびボールを持てば、繊細かつ大胆なプレーでサッカーファンを魅了した。
ゲオルゲ・ハジは1965年、ルーマニアの北西部にある小さな街で生まれる。国内では早くからその才能が注目され、18歳で代表に選ばれる。名門ステアウア・ブカレスト時代には、チャンピンズカップ(現在のチャンピオンズリーグ)準優勝に貢献した。
1990年のイタリアW杯で活躍すると、スペインの名門レアル・マドリードに移籍。その後、いったんイタリアのブレシアに移籍するものの、1994年、アメリカW杯でルーマニアを初のベスト8進出に導き、今度はバルセロナに移籍する。
アメリカW杯でルーマニアをベスト8に導いたゲオルゲ・ハジ
1996年にトルコのガラタサライに移籍すると、リーグ4連覇に貢献。2000年にはUEFAカップ優勝を達成する。しかも、これはトルコのクラブ史上初の快挙であり、無敗でUEFAカップを制したのも史上初めてだった。ガラタサライで背番号10番を背負い、キャプテンとしてチームを牽引したのがハジだった。
17年間もルーマニア代表に選ばれ続け、通算35得点は、アドリアン・ムトゥと並び、今なお破られることがない同国の最多記録だ。典型的なレフティで、ゲームをコントロールするのはもちろんのこと、針の穴を通すような正確なスルーパス、相手をあざ笑うかのようなトリッキーなプレー、ドリブル突破、そして自らシュートも狙う。その多彩なプレーぶりから「東欧のマラドーナ」と呼ばれていた。
そのハジが一番輝いたのはやはりアメリカW杯だろう。大会前の評価は決して高くはなかった。注目選手のひとりではあったが、その評価は「プレーは一級品だが、ムラがあり好不調の波がある」というものだった。
ルーマニアが入ったのは、開催国のアメリカ、コロンビア、スイスと厳しいグループだった。
初戦の相手は優勝候補の一角にも挙げられていたコロンビア。当時のコロンビアは、カルロス・バルデラマ、フレディ・リンコン、ファウスティーノ・アスプリージャ、アドルフォ・バレンシアなど多くのタレントを擁し、南米らしいテンポのあるパス回しを得意とする注目のチームだった。
試合は予想どおりコロンビアが圧倒的にボールをキープする。しっかり守ってカウンターを狙いたいルーマニアは前半16分、相手のパスをカットすると、センターサークル付近にいたハジが、トラップするとみせかけ反転して相手をかわしてドリブル。最後はフロリン・ラドチョウにスルーパスを出し先制する。
さらに前半35分、左サイドライン付近でハジがパスを受ける。誰もがゴール前へのクロスか味方へのパスを予想したが、GKが前に出ていると見ると、そこから得意の左足でシュートを狙った。ボールは右サイドネットに突き刺さった。今も”伝説のゴール”としてファンの目に焼き付いているシーンだ。
そして試合終了間際の後半44分には、フリーキックでの素早いリスタートからラドチョウの2点目をアシスト。ハジの1得点2アシストの活躍でコロンビアを3-1で破った。
2戦目のスイス戦は退場者を出したこともあり1-4で大敗するが、決勝トーナメント進出がかかった3戦目のアメリカ戦は完全アウェーのなか1-0で逃げ切り、グループリーグを1位で突破した。
決勝トーナメント1回戦の相手はアルゼンチン。ディエゴ・マラドーナは大会期間中にドーピング検査にひっかかり追放されていたが、ガブリエル・バティストゥータ、フェルナンド・レドンド、ディエゴ・シメオネなどスター選手が揃っていた。
試合は1-1の同点で迎えた前半18分、ハジがドリブルで右サイドを攻め上がると、ニアサイドに走り込んできたイリエ・ドミトレスクにスルーパス。ドミトレスクは右足で合わせるだけという芸術的なパスだった。後半13分には自らシュートを決め、3-2でアルゼンチンを破り、準々決勝進出を決めた。
準々決勝ではスウェーデンを相手に死闘を繰り広げ、ハジのフリーキックから2点が生まれ2-2に。ルーマニアはPK戦で力尽きた。
この大会で筆者が拠点としていたロサンゼルスの小さなホテルには、ルーマニアのメディアも泊まっていた。だが彼らは、スウェーデン戦は取材に行かないと言う。
「サンフランシスコまで移動する飛行機代がない。でも、勝てば準決勝、決勝はロサンゼルスのローズボール。だから、俺たちはテレビで応援するよ。大丈夫、ハジがやってくれるさ」
スウェーデンに敗れた翌日。タクシーに荷物を詰め込む彼らがいた。私を見つけるなり、こう言って握手を求めてきた。
「ルーマニアは強いだろう。ハジはすごいだろう。胸を張って帰れるよ」
アメリカW杯のルーマニア代表の総得点は10点。ハジは3得点4アシスト。ほとんどのチャンスは彼の左足から生まれていた。ヒールキック、股抜き、ルーレットなど、ボールを持ったら何をするかわからない。そんなスリリングなプレーが見る者を魅了した。大会後にはFIFAが選ぶベストイレブンにも選ばれている。それは”東欧のマラドーナ”から”世界のハジ”になった証拠だ。ルーマニア国内では「ハジを大統領に」という声が上がったほどだ。
大会終了後にはバルセロナに移籍。ヨハン・クライフのもと、フリスト・ストイチコフやロマーリオとともに”ドリームチーム”の一員となった。
ルーマニア代表は1998年のフランス大会を最後にワールドカップに出場していない。ハジはルーマニアサッカー界の最高傑作だった。