日本プロ野球名シーン「忘れられないあの一打」第2回 近鉄・山本和範プロ最終打席の決勝本塁打(1999年) 福岡は言わずも…

日本プロ野球名シーン
「忘れられないあの一打」
第2回 近鉄・山本和範
プロ最終打席の決勝本塁打(1999年)

 福岡は言わずもがな、ホークスの街である。本拠地は9割方、もしくはそれ以上が地元びいきのファンで占められる試合も珍しくない。

 なのに、ホークスの本拠地で観客が総立ちになって、ビジター側の選手に大歓声を送り、感激の涙を流す名場面があった。福岡でそんな出来事が起きたのは、あの一度きりではないだろうか。



試合後、花束を手に球場を一周する山本和範

 1999年9月30日、ダイエー対近鉄。
※のちにダイエーはソフトバンクに買収され、近鉄はオリックスと合併

 この頃の福岡の街は特別な熱気に包まれていた。5日前に同じ福岡ドームで、ダイエーが福岡移転後初、ホークスとしては26年ぶりのリーグ優勝を飾ったばかりだったからだ。ファンの喜びようは、現在とは比べものにならないほど凄まじかった。

 そんななかで迎えたこの試合は、ダイエーのシーズン本拠地最終戦だった。リーグ優勝したチームがそのまま日本シリーズに進んでいた頃は、本拠地最終戦はペナント授与のセレモニーが行なわれたり、選手の場内一周があったり、チケットがプラチナ化するのが通例だった。だからこの日も消化試合にもかかわらず、スタンドは超満員のファンで埋め尽くされていた。

 ダイエーが工藤公康、近鉄が前川克彦(翌年から登録名を勝彦に変更)の両先発で始まった。

 1回裏にダイエーがニエベスのタイムリーなどで先制し序盤で3点を奪う。一旦追いつかれるも、6回裏に途中出場の村松有人がタイムリーを放って4対3と勝ち越した。

 しかし、近鉄も意地を見せる。8回表に藤井彰人の三塁打から高嶋徹の犠飛で同点に。試合は4対4のまま9回表に入った。

 ダイエーは、この年リリーフながら、この時点で14勝0敗という驚異的な成績を残していた篠原貴行がマウンドに立っていた。

 篠原が打者ふたりを打ち取り、二死走者なし。打席に向かったのは、球界最年長(当時)の41歳、山本和範だった。

 この日、6番・指名打者でスタメン起用された山本だったが、これがシーズン初出場。これだけのベテランがこの時期まで一軍にお呼びがかからなかったということは、つまり来季構想から外れているということだ。近鉄はいわゆる"花道"のつもりで、山本を先発出場させたのだった。

 だが、山本の考えは違った。引退するなど、まったく考えていなかったのだ。

 不屈の男──それが山本の代名詞だった。

 1957年生まれ、福岡県出身の山本は戸畑商から1976年ドラフト5位で近鉄に入団。もともとは投手だったが、すぐに"クビ"になり外野手に転向。4年目でようやく一軍初出場を果たすも、6年目のオフに戦力外通告を受けた。

 野球をあきらめて郷里に戻ろうとも思ったが、同期のドラフト1位で同郷の久保康生(現・ソフトバンク二軍投手コーチ)に紹介されたバッティングセンターで働きながら打撃を磨いた。

 すると、二軍時代の山本を知る南海(現・ソフトバンク)の穴吹義雄監督から誘いがかかり、1年のブランクを経て1983年にプロ野球選手として返り咲きを果たしたのである。

 そこから開花は早かった。無類の勝負強さを発揮して、1984年にはライトのレギュラーに定着。のちに山本はこう語っている。

「近鉄では精神的な強さを身につけられたし、南海やダイエーではファンの温かさに触れて、それが自分のパワーになっていくし、応援のおかげで自分の力以上のものが出せました。ファンのおかげなんです」

 1988年オフに南海が身売りされ、福岡ダイエーホークスが誕生。当時はまだ数少なかった地元・福岡出身の主力選手として絶大な人気を誇った。1994年には「バントをしない2番打者」という斬新な役割で活躍。世に登場したばかりのイチローと首位打者争いを演じ、打率.317(リーグ2位)の好成績を残した。この年のオフの契約更改では年俸2億円に達し、それも話題になった。

 しかし翌年、開幕早々に右肩亜脱臼で長期離脱。ホークスでは自身最少の出場46試合、成績も打率.201、0本塁打に終わった。皮肉にも高年俸が仇(あだ)となって、退団を余儀なくされた。この時、すでに38歳だった。

 だが、もうそろそろ......などという考えはまったくなかった。なんと、近鉄のテストを受けて再入団。すると、往年の輝きを取り戻し、1996年のオールスターにファン投票で出場を果たした。

 舞台は福岡ドーム。走者ふたりを置いた絶好の場面で代打起用された山本は、阪神・藪恵壹から劇的な3ランを満員の右翼席に運んだのだった。

 近鉄復帰後も2年連続で2ケタ本塁打をマークするなど、変わらぬ役者ぶりを見せていた。しかし、1999年はずっと二軍暮らし。球団から引退を勧められるが、山本は現役続行を宣言した。

 かつて、山本に当時の胸の内を振り返ってもらったことがある。

「僕もそうですけど、プロ野球選手のほとんどは"引退"やないんですよ。クビです。引退とは違う。僕らは契約のなかで野球をやっていたわけで、自ら『引退します』というのは試合を放棄するのと一緒なんです。まあ、カッコいいですけどね、引退宣言するっていうのは......。うらやましくもあります。言(ゆ)うたほうが次の仕事も見つかりやすいみたいだし(笑)。でも、僕はずっと黙ってた。『男は黙ってサッポロビール』というコマーシャルもあったでしょ。男は黙って勝負や。九州で育った男やしね」

 ただ、福岡のファンはわかっていた。もしかしたら最後の勇姿になるかもしれない......と。

 場面を再び、1999年9月30日のダイエー対近鉄、9回表の二死走者なしに戻す。

「あれは奇跡だった」

 篠原が投じた速球を完璧にとらえた。舞い上がってグングン伸びた打球は、ライトスタンドの満員のファンのなかに吸い込まれていった。山本は二塁ベースを回ったあたりで思わずヘルメットを脱いで、両手を高々と上げて360度を見渡すようにしながらダイヤモンドを回った。

 篠原の"不敗神話"もダイエーの最終戦セレモニーも吹き飛ばした決勝ホームラン。試合後はチームメイトから胴上げをされ、無数の紙テープが舞い込むなかで花束を持って場内を一周した。

 この日は進退について明言を避けた山本が会見を開いたのは10月15日。大阪にある近鉄の球団事務所で引退を表明した。

「あれ以上の感動をファンに与えるのは無理だと思った。ダメな選手だったけど、やるだけやったから涙も出ない」

 引退後、山本は生まれ故郷である福岡県北九州市に拠点を移した。バッティングセンターで無料の野球教室を行なったり、ソフトバンクが主催する野球スクールで講師を務めたり、野球とかかわりながら人生を歩んでいる。もうひとつ、黒崎駅のすぐ横にある「北九州市立子どもの館」の館長も、開業時から務めている。