日本プロ野球名シーン「忘れられないあの一打」第1回 ヤクルト・杉浦享 代打サヨナラ満塁本塁打(1992年)【引退間際に訪…

日本プロ野球名シーン
「忘れられないあの一打」
第1回 ヤクルト・杉浦享 
代打サヨナラ満塁本塁打(1992年)

【引退間際に訪れた大舞台】

 延長12回裏。12時33分に始まった試合は4時間を迎えようとしていた。

 1992(平成4)年10月17日、神宮球場で西武ライオンズとヤクルトスワローズが激突した日本シリーズ第1戦。西武のマウンドには10回裏から投げ続けている鹿取義隆が上がっていた。プロ14年目の大ベテランは、シーズン中にもロングリリーフを何度か経験していたこともあり、老獪なピッチングを続ける。35歳になっても、まったく衰える気配はなかった。

 この時、一塁側ベンチ裏では杉浦享がバットを振っていた。シーズン終盤に「今季限りでユニフォームを脱ごう」と決意し、すでに新聞報道もされている。その後、広沢克己や池山隆寛ら若い選手の台頭により、チームは14年ぶりのセ・リーグ制覇を実現。まさか、現役最終年に「日本シリーズ」という大舞台が待っているとは思わなかった。


1992年の日本シリーズ初戦で代打サヨナラ満塁弾を放った杉浦

 photo by Sankei Visual

 この年は右足肉離れや慢性的な腰痛の影響もあって、わずか2安打に終わった。シーズン終了とともにユニフォームを脱ぐつもりだったが、野村克也監督からは「代打の切り札として、日本シリーズでもベンチ入りしてほしい」と言われた。現役生活22年目、その集大成を見せる時がやってきた。最後の意地を見せるべき時が訪れていた。

 グラウンドからは歓声が聞こえる。この回の先頭、秦真司がレフトにツーベースヒットを放ち、ライトスタンドのボルテージが一気に上がった。ここで杉浦がバットを持ったままグラウンドに登場。続く、八番・笘篠賢治は敬遠で一塁に進み、無死一、二塁のチャンスを迎えた。

 九番・岡林洋一のところで野村克也監督が動いた。好投する岡林に代わって、代打・角富士夫の名前が告げられた。角が登場すると、すかさず三塁側ベンチから西武・森祇晶監督が自らマウンドへ。両軍のベンチワークが慌ただしくなった。

 12回をひとりで投げ抜いた岡林は161球を投じていた。しかし、力投した岡林の代わりに登場したベテランの角は送りバントを決めることができず、サードへのファールフライに倒れる。それでも一番・飯田哲也がショートへの内野安打で出塁し、一死満塁の大チャンスを作り出した。

 野村監督がゆっくりと立ち上がり、主審に代打を告げた。ここで登場したのが杉浦だった。

 盛り上がる神宮球場。勝敗のカギを握る場面で、杉浦は何を考えていたのか。真っ白なあごヒゲをたくわえた杉浦が「あの打席」を振り返る。

「最初は、『えっ、オレ?』という思いでした。同時に、『一番目立つ場面じゃねぇかよ』とも思いましたね。決して『よっしゃ、やってやる!』と意気込んでいたわけじゃない。むしろ『イヤだな』という思いのほうが強かった。体は緊張でカチカチでしたから......」


当時を語った杉浦氏

 photo by Hasegawa Shoichi

 打席に入る際に、杉浦は鹿取・伊東勤バッテリーの配球を予想していた。

「まずは、ゴロを打たせるためにアウトコース低めにシンカーを投げてくるだろう。そして2球目は見せ球として、インコースにボール気味のストレートを投げてくるんじゃないか? あるいは、初球と同じアウトコースにシンカーか?」

 そんな思いを胸に杉浦は左打席に入ったのだった――。

【山田久志に封じ込まれた苦い記憶】

 ヤクルトが初めて日本一に輝いた1978(昭和53)年の日本シリーズ。その初戦でも、この時と似たような場面があった。5-6と1点のビハインドで迎えた9回裏、二死満塁の場面で打席に入ったのが、当時売り出し中だった26歳の杉浦だった。マウンドには、4年連続の日本一を目指す阪急ブレーブスの大エース、山田久志が君臨。山田は初回から投げ続け、球数は150を数えていた。

 ここで杉浦は粘った。フルカウントになってからもファールを連発して、甘いボールが来るのを待ち続けた。それでも、山田はやっぱりエースだった。杉浦に対する11球目、杉浦が放った打球は力なく、セカンドの(ボビー・)マルカーノへのフライとなり、ヤクルトは初戦を落とした。

 若き日の杉浦にとって、忘れることができない悔しい場面になった。山田の前に散ったあの日から、14年が経過していた。この時、杉浦はどんな心境だったのか。

「山田さんと対戦した1978年の日本シリーズのことは、この時はすっかり忘れていました。後になって、『あぁ、そういうこともあったな』と思い出した程度です。それよりも、まずは鹿取と伊東バッテリーの配球を考えながら、『とにかくリラックスしよう』。そんな思いだったはずです」

 杉浦への初球は、シュート回転しながら外に逃げていくストレート。杉浦は見逃したが、判定はストライクだった。「杉浦は初球を見逃す」ということはファンでさえ知っていたように、西武の女房役である伊東も熟知していた。

 アウトコースのボールをイメージしていた杉浦は(やはり、外から攻めてきたか)と考えていた。鹿取の投球テンポは速い。すぐに2球目が投じられた。ボールは真ん中付近の甘いストレートだった。このボールも、杉浦は平然と見逃した。いや、手が出なかったのだ。

「2球目にインサイドから真ん中辺りのストレートが来て、『えーっ』と思いましたね。おそらく、指にかかりすぎたんだと思います。絶好球でしたから。それで、ひとまずバッターボックスを外しました。自分の頭の中を整理するためです。『このまま何も振らずに終わったらみっともないな』とも考えていましたが、同時にジャイアンツ時代の鹿取くんのことを思い出しました」

 鹿取は1979年から1989年まで巨人に所属していた。当然その間、杉浦は何度も対戦していた。杉浦にとって、巨人時代の鹿取は精緻なコントロールを誇る投手ではなかった。テンポよくストライクを奪って打者を追い込み、その後は「とにかく低めなら低め、高めなら高めに徹底的に投げ続ける投手」だった。

「ジャイアンツ時代にはポンポンとストライクで追い込まれて、ストライクゾーンから落とす球でセカンドゴロ、ショートゴロで打ち取られていたことを思い出しました。でも、カウントはツーストライクなので、まだ低めでの勝負はないだろうと。それで、高めのボールに意識を置いて、再び打席に入ったんです」

【日本シリーズ史上初の代打サヨナラ満塁ホームラン】

 そして投じられた3球目。高めに外すはずのボールが真ん中付近の絶好球になった。後に鹿取が「高めに外すつもりが浮いてしまった」と言い、伊東が「勝負を焦りすぎた」と悔やむことになる一球。杉浦が放った弾丸ライナーは一瞬で、ヤクルトファンで埋まるライトスタンドに突き刺さった。あっという間のサヨナラホームランだった。

「打った瞬間、『オレ、なんてことをしたんだろう』と思いました。セカンドを回る頃にはじわじわ感激してきて、半分泣いていました。『こんなすごいことをしてしまっていいのかな?』と首をかしげながら泣いていました」

 ベンチからは力投を続けた岡林が、子どものように無邪気にジャンプを繰り返しながら飛び出してきた。他の選手たちもホームインする杉浦を迎えた。みんなに揉みくちゃにされながら、杉浦は感動していた。そして、1978年の日本シリーズのことが頭をよぎった。

「あの時は『山田さんはストレートを投げてくるに違いない』とわかっていたのに、そのボールを捉えることができなかった。途中、あわやホームランかというライトポール際の特大ファールを打ちましたが、結果はセカンドへのファールフライでした。でも、この時は鹿取くんの投球をきちんと読んで打ち返すことができました。『なんでオレって、こういう巡り合わせなんだろう』って思いましたよ......」

 26歳の時の失敗を、40歳の杉浦は見事に取り返したのだった。杉浦は今でも「あのホームランはすごかったですね」と言われるという。多くの人々の脳裏に、今もなお生き生きと息づいているのがこの一打なのだ。そして、この豪快な一発は、1992年、そして翌1993年と続く、西武とヤクルトによる激戦の幕開けの号砲でもあったのだ――。