PLAYBACK! オリンピック名勝負―――蘇る記憶 第26回スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典・オリンピック。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あの時の名シーン、名勝負を振り返ります。◆ ◆ ◆ 2008年北京五輪の男子3…

PLAYBACK! オリンピック名勝負―――蘇る記憶 第26回

スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典・オリンピック。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あの時の名シーン、名勝負を振り返ります。

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 2008年北京五輪の男子3m飛板飛込、4大会連続出場の寺内健は競技人生の集大成として臨んだ。



4大会連続出場となった北京五輪で、飛込競技に挑む寺内健

 寺内は、小学5年の時に飛込王国である中国出身の馬淵崇英コーチ(98年に日本国籍を取得)に誘われて飛込を始めた。それ以来、二人三脚で競技に取り組み、中学2年の時に日本選手権高飛込で優勝。96年アトランタ五輪に高校1年で出場し、高飛込で10位に入った。

 さらに、00年シドニー五輪では、高飛込で日本史上最高の5位入賞を果たし、3m飛板飛込でも8位に入賞。01年世界選手権3m飛板飛込では、日本初メダルとなる銅メダルを獲得した。その後はヒザを痛めて飛板飛込に専念し、02年2月に手術を行ない、リハビリを経て1年後に復帰。04年のアテネ五輪では、3m飛板飛込で8位に入賞した。

 寺内は日本の男子飛込界の歴史を切り開いてきたのだ。

 4回目の五輪挑戦となった北京五輪に、寺内は自信を持って臨んだ。07年3月の世界選手権は4位だったが、2本目以降は7人の審判がほとんど9.0~9.5点を出すノーミスのダイビング。その時の寺内は前踏切逆宙返りで、難易率3.5の307C(前逆宙返り3回半抱え型)を予定していたが、ギリギリになって「確実に得点を取れるほうを」と考えて技を変更し、難易率3.0の305B(前逆宙返り2回半エビ型)に抑えた。

「世界選手権の前に参戦した上海の大会で、周りの若い選手たちが307C を簡単に決めているのが悔しくて、それが力になったのか、しっかり板先に踏み込んだら『行ける』という感覚をつかめたんです。それだけに、世界選手権で307Cをできなかったのは悔しかったですね。周りからは、『307Cでしっかり決めていればメダルは行けたんじゃないか?』と言われました。だから、五輪ではもうそんなことは言われたくない。もちろんメダルを獲りに行くけど、そのためにもしっかり戦って勝つ、というのが理想の形です」

 悔しさの反面、大きな手応えもあった。難易率3.4の5154B(前宙返り2回半2回捻りエビ型)と、3.5の5353B(前逆宙返り2回半1回半捻りエビ型)は、12名出場の決勝でほぼ全員が実施したなかで、寺内は共に2番目となる高得点を獲得していたのだ。馬淵コーチも「北京五輪のメダルの手応えをつかめた」と話していた。

 寺内自身も、「昔は世界を追いかけるだけだったけれども、01年の世界選手権で3位になってから戦うことを意識しました」と述べた。

「04年以降は海外で成績を出していなくて、ちょっとずつメダルが遠のいた感じもありました。でも、世界選手権でメダル争いに絡めたことで、(馬淵)崇英コーチも『これで戦える』と再確認できた。練習でやってきたことが正しかった、という思いは僕も同じだし、今の練習を続けていけば行ける、という意識もあります」

 寺内は「やっぱり五輪は4回出ないとダメなんでしょうかね。この競技は本当に時間がかかるから」と言って苦笑し、さらにこうも話した。

「飛込は昔から若い層とキャリアを積んだ層の戦いが面白いけど、高飛込の場合は一発屋がパッと優勝して、すぐにいなくなることが多いんです。でも、飛板飛込のほうは、わりとキャリアを積んだ選手が戦えると思います。たまに一発屋も出てくるけれども、上位を占めているのはキャリアの長い選手ばかり。そういう意味でも、今は自分の力が発揮できている時期だと思います。僕自身、高さも取れているし、ゆったりした大きな演技ができているんじゃないかと思います」

 自分のために帰化までしてくれた馬淵コーチと共に「最後の五輪」と決めて臨んだ北京五輪は、コーチの母国である中国での開催。だからこそ、寺内の4回目の五輪にかける思いは大きかった。

 予選と準決勝は307Cを封印して臨み、10位と7位で決勝進出を果たしたものの、けっして波に乗れるような出来ではなかった。決勝で勝負をかける307Cを点数が出やすい後半に入れることは、北京入りしてから決めていた。したがって、予選と準決勝では、それまで2本目に入れていた前逆系の305Bを4本目に入れていたのだ。

 予選は、2本目の5154Bで全体1位の85.00点を出し、次の3本目まで2位につけた。だが、飛び順を変更したことで少し狂いが出たのか、305Bから崩れ始めた。さらに、準決勝は2本目で4位に上げたが、305Bの入水が乱れた影響で7位にとどまっていた。

 307Cを組み込むとはいえ、決勝進出12名の選手の中で寺内の難易率合計は9番目だった。勝負のカギは完成度の高さだ。だが、準決勝同日の夜に行なわれた決勝では、思ったように得点が伸びないスタートになった。入賞ラインはなんとか維持していたが、3本目を終わった時点で7位。メダル争いグループとは10点強の差が開いていた。それを挽回するための種目は、4本目の307Cだった。

 しかし、その勝負の種目は回転が少し足らず、入水を乱して4.5点から6.0点の評価。その結果、49.00点と低い得点に終わり、順位を11位に落としてしまった。

「もう1.5㎝くらいは踏み込めたような踏み切りだったけど、助走もよくて高さもスピードも十分だったので『絶対に決めてやる』という気持ちでした。でも、入水に持っていく動きが少し早かったので、ショート気味に落ちてしまった」

 そう話す寺内は、5本目の107B(前宙返り3回半エビ型)は少し踏み込みが甘い飛び出しで69.75点。順位を12位に落としてしまった。最後の5353Bは全体6番目の85.75点で、順位を11位に戻して競技を終えた。

「307Cが終わった時点でメダルは厳しくなったけれども、この舞台で最後まで自分らしい演技を貫くことはまっとうできました。五輪で初めて、無難に戦うのではなくしっかり攻め切って負けたので、悔いはありません。結果も、過去4回でいちばん悪かったけれども、五輪で戦っているのを初めて肌で体感しながら演技でき、清々しく飛べた。この4年間は苦しかったけど、コーチと一緒に練習してきたので、本当に幸せだった」

 寺内は演技後、馬淵コーチから「やってきたことは後悔することじゃないし、俺の中では最高の選手だ」と言われ、涙を流した。そして、その瞬間にはこれまでの17年間がフラッシュバックした、とすっきりした表情で話した。

 飛込をはじめた小学5年生の時、すぐに連れて行かれたのは上海の合宿だった。そこでは中国選手のレベルの高さと、練習量や質の高さを見せつけられた。そして、それを見ることで、「競技のスタートが遅い自分が同じことをやったとしても、ただ彼らの尻を追いかけるだけにしかならない。日本人に合った練習や、日本でできる練習など、何か違う方向から攻めないと戦えないのではないか」とも思った。

 そんな気持ちを胸に抱き、馬淵コーチとともに17年間ひたすら突っ走ってきた。その思いが心の中にあったからこそ、11位という結果でも戦い続けてきた自分に納得できたのだ。

 寺内は09年4月には現役引退を発表。競技から離れたが、飛込への思いを消し去ることはできなかった。翌10年8月に、12年ロンドン五輪出場を目指して現役復帰を表明。ロンドン五輪はワールドカップで出場権を獲得しながらも、日本水泳連盟の内規により代表になれなかったが、16年リオデジャネイロ五輪には出場を果たし、20位で終えた。さらに、19年の世界選手権では坂井丞と組んだシンクロ3m飛板飛込で7位になって、東京五輪出場権を獲得した。9月のアジアカップ3m飛板飛込でも優勝し、シンクロに続き個人での五輪出場権も獲得した。

 開催時期が1年間延期されたため、21年の東京五輪本番を41歳直前で迎える。しかし、寺内健の飛込を追求する意欲は、いまだ衰える気配がない。