幻の21世紀枠校・磐城高校物語(前編) 体中が震えるほどの歓喜から、現実を受け止めたくても受け止め切れない失意。まる…
幻の21世紀枠校・磐城高校物語(前編)
体中が震えるほどの歓喜から、現実を受け止めたくても受け止め切れない失意。まるでジェットコースターのような感情の起伏が、2カ月弱のうちに宗像治(むなかた・おさむ)に去来した。

1971年夏の磐城の準優勝メンバーのひとりである宗像治氏
1月24日は、夢が叶った日だった。
「頼む……選ばれてくれ」
福島県高野連理事長の任期を終えた2014年から、センバツの選考委員と大会役員を務める宗像は、今年も大阪の会場にいた。担当は一般出場校だったが、同じ施設の別の場所で行なわれている、21世紀枠の選考が気になって仕方がなかった。
「気になるでしょ?」
ほかの選考委員から気遣われつつ、目の前にある職務に集中していた。しかし、母校の磐城高校が46年ぶりに選ばれるかもしれないとなると、やはり気が気ではなかった。
午後、母校のセンバツ出場が決まると、無意識に「やった!」と声が出ていた。会場にいる選考委員たちからも祝福された。
あの感動は、今もすぐに蘇る。
「今年の選考委員会は、特別な想いで行きましたから。大会中の僕は、チームの誘導係を任されていて、東北地区と近畿地区の担当なんです。だから当然、試合前と試合後には母校にも帯同するわけですけど、大会役員の仕事をするようになってからは、それがずっと夢でした。この仕事に就いてから、福島県は聖光学院しか出ていないから(笑)」
宗像は夏も大会役員として同様の役割を果たすが、聖光学院の連続出場は2007年から続く。だからこそ、喜びもひとしおだった。
磐城は1995年の夏に出場しているため、甲子園自体は25年ぶりの出場となる。役員として甲子園を知る宗像は、職務と私情のバランスをコントロールしながら、最大限サポートしていこうと、心躍らせながらシミュレーションをしていたのだという。
「監督や選手からすれば初出場ですから。かなり緊張するだろうし、大会役員の担当として、できる限りのアドバイスをしながら『試合までにリラックスさせていあげたいな』とかね。考えるだけで楽しみでしたよ」
磐城のセンバツ出場が決まった頃、中国・武漢で新型コロナウイルスの感染が急速に拡大し、日本も警戒態勢を敷き始めていた。1カ月が経ち、国内でも感染者が増加の一途をたどっていたとしても、大会開催の方針は変わらなかったと、宗像は言う。
「高野連と連絡を取り合うなかで、『毎日の検温のために体温計を用意してください。あと、マスクはこちらでも確保が困難なので、各自で用意してください』と指示があって。高野連は本気で大会をやろうとしているんだって心強かった。情勢が悪化しても、何かしらの形で開催されるんだと思っていたんですが……」
3月4日に、高野連が無観客開催で準備を進めると方針を打ち出しても、宗像は「やらないよりはいい」と受け入れた。だが1週間後の3月11日、ウイルスの収束が見込めず、大会運営委員会はセンバツの中止を決めた。
この知らせを、宗像はテレビのニュース速報のテロップで確認した。まもなくして高野連から正式に中止の電話があり、磐城OBなど多くの知人からも連絡が入った。
宗像は例年、大会前後には母校の監督に、電話やメールで激励している。木村保監督にもセンバツ決定後には<おめでとう!>とメッセージを送り、大会中止を受けて<残念だったね>と慮った。
自身も49年前にプレーした聖地。その大舞台で、鮮やかなコバルトブルーのユニフォームがプレーする。後輩たちの雄姿を見守れなかった悔しさ、無念さが襲う。
宗像が負の感情を抑えながら、静かに語る。
「本当に厳しかったんだと思う。高野連の『望みがあるならやろう』という姿勢は、充分に伝わっていましたから。それでも、中止を選択せざるを得なかったんだから、僕はそれを受け入れるしかありません。自分に何かできるなら、やったんでしょうけどね……今は現場を退いた身で、あくまで大会はお手伝いする立場ですから」
気持ちを切り替え、前を向こうとしても、やり切れなさはどうしても残る。
立ちはだかる壁、抗えない社会情勢──宗像の野球人生を紐解けば、それらのキーワードが克明に浮かび上がってくる。
高校時代に、いわき市の産業を象徴していた常磐炭鉱が閉山。福島県高野連理事長の任期中の2011年には、東日本大震災と福島第一原発事故に見舞われた。憂き目にあいながら現実と対峙し、立ち向かった経験が宗像にはある。今回の新型コロナウイルスの猛威は、いわば3度目の「強大な壁」だった。
常磐炭鉱が閉山したのは、宗像が高校3年生になったばかりの1971年4月だった。
記憶が残る小学生時代、常磐炭鉱の職員たちは羽振りがよかった。少年だった宗像も、「大人になったら炭鉱に勤めたいな」と思ったほどである。
それが、石油、そして原子力など石炭以外のエネルギー産業が盛んになるにつれ、炭鉱は衰退。いわき市近隣の双葉郡に誘致されていた、福島第一原子力発電所の1号機が1971年3月に営業運転を開始したこともあり、石炭は事実上、その役割を終えた。県内随一の進学校である磐城の生徒たちも、「いい大学に入って東京電力に入社し、原発で働きたい」と目標を抱くようになっていた。
宗像は高校生ながらに、町の活気が失われていく様子をリアルに感じたという。
「いわきは『炭鉱の町』だったから、町全体が暗かったです。閉山の話題ばっかりでね。石炭がダメになって、常磐ハワイアンセンター(現スパリゾートハワイアンズ)を作って町を盛り上げようと頑張ったりしていたけど、やっぱりあの時期は炭鉱閉山のダメージは大きかったと思います。野球部のなかにも、炭鉱で働いていた親が職を失って職業訓練校に行ったり……。『いわきは大変なことになっているんだな』と感じたものです」
他人事に近い感情を抱いていた少年たちが、まさか市民の希望の光になるなど、宗像をはじめとする磐城メンバーの誰も思ってもみなかった。
この年の夏、甲子園出場を決めた磐城は、福島県の高校野球史に残る快進撃を続けた。
初戦(2回戦)で「優勝候補の大本命」と目されていた日大一を1−0で撃破。殊勲者は相手を完封したエースの田村隆寿、そして決勝打を放った宗像だった。
甲子園では「2番・センター」として出場し、準々決勝の静岡学園、準決勝の郡山戦でも安打と打点を叩き出した。磐城よりも格上とされるチームを退けたことにより、周囲が盛り上がる。「とにかく必死だった」という選手たちにとっては、不思議な現象だった。
「宿舎で自由に新聞を読んだり、テレビを見ることができなかったんで、世間の様子を知ることができるのは試合後の取材しかなかったんです。僕の親は炭鉱勤めではありませんでしたから、閉山の話題はされませんでしたが、該当する選手は聞かれていたと思います。ただ、『地元は相当、盛り上がっているんだな』ということは、記者の方に教えられてなんとなくはわかっていました」
決勝戦で桐蔭学園(神奈川)に敗れ、東北勢初の全国制覇は叶わなかった。しかし、磐城野球部が市民の希望であり、活力であったことは、地元に凱旋すると一目瞭然だった。
今では禁止されているが、当時は高校生のパレードが許されていた。いわき市のメインストリートの両端は人で埋め尽くされている。
紙吹雪が舞う。「よくやった!」「ありがとう!」。沿道からの賛辞が止むことはない。クラスメイトからは「お前らの試合の日は、町に誰も歩いていなかった」と教えられた。
「『すごいことをやったんだな』って、帰ってから実感しました。それくらい、町が盛り上がっていたんです。今みたいに、高校野球と社会が結び付けられるような時代じゃなかったけど、あの時は本当に『みんな喜んでくれてよかったな』って思いました」
福島県民にとって、1971年夏の磐城の激闘は、今も伝説として語り継がれている。「準優勝メンバー」。それだけで、県内では箔が付く。なかには、その金看板に翻弄された人間もいたが、宗像は自分たちが築き上げた実績に「助けられた」と言う。
「だって、指導者になってから『準優勝のメンバー』ってことで、いい選手が来てくれたりね。そういうところもありましたから」
指導者としての宗像は、1988年に福島北を初の甲子園となるセンバツへと導き、1勝を挙げている。自身が言うように、選手に恵まれたことも要因なのだろう。だがそれ以上に、宗像が「準優勝」と真正面から向き合ったからこそ、得られた成果でもあった。
だがその後、福島県の高野連理事長となった宗像を、今度は東日本大震災が襲った。
(つづく)