PLAYBACK! オリンピック名勝負―――蘇る記憶 第25回スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典・オリンピック。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あの時の名シーン、名勝負を振り返ります。◆ ◆ ◆ 中村礼子は、2008年北京…

PLAYBACK! オリンピック名勝負―――蘇る記憶 第25回

スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典・オリンピック。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あの時の名シーン、名勝負を振り返ります。

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 中村礼子は、2008年北京五輪の女子200m背泳ぎで、2大会連続のメダル獲得(銅)という快挙を達成した。日本競泳女子にとって、この記録は、200m女子平泳ぎの前畑秀子以来(1932年ロサンゼルス五輪銀、36年ベルリン五輪金)以来、72年ぶりの出来事だった。



北京五輪女子200m背泳ぎで、2大会連続の銅メダルを獲得した中村礼子

 その伏線となったのは、じつは100m背泳ぎでの失敗にあった。

 4年前のアテネ五輪で中村は、200m決勝で日本記録を出し、3位同着となってメダルを獲得した。だがその前に行なわれた100mでは、前半に力んでしまった影響が最後に出てしまい、ラスト5mで2位から4位に順位を落とす惜しいレースをしていた。

 北京五輪の100mでは、予選で59秒36の日本記録を出し、好調な滑り出しでメダル圏内に入ってきたが、平井伯昌(のりまさ)コーチが言う、「弱気の虫」が出る性格が、足を引っ張ってしまった。

「僕が『予選から行け』と言ったことで、たぶん、礼子の考えは『ミスをしてはいけない』『もっとうまく泳がなければいけない』という細かなところにこだわってしまい、大胆に行こうという気持ちが少し足りなくなってしまったのだと思う」

 平井がそう話すように、準決勝は59秒64、決勝は59秒72とタイムを落として、中村は6位に終わった。

「予選でベストが出たので、自信を持って行きました。最後の25mを過ぎてからが勝負だと言われていて、折り返してからも2位になったカースティ・コベントリー(ジンバブエ)とも並んでいたのですが、勝負と思った瞬間に焦ってしまい、自分の気持ちの弱さが出てしまいました」と、中村はレースを振り返った。

 平井は、中村が「先生はちゃんと指示してくれたのに、私の気持ちの弱さでダメでした」と言うだろうと思っていた。翌日に声をかけると、案の定、「私の気持ちが弱くて......」と言ってきた。

「だから『そうじゃないよ』と言ったんです。準決勝では少しタイムが下がったけれども、(北島)康介のようなはっきりしたミスではなかったから、僕は大丈夫だと思った。『礼子が弱気になってしまったのは僕のミスだ。それが悔しくて、昨日は眠れなかったよ』、そう言うと、礼子がボロボロ泣き出したんです。それで、『もうこれで100mは終わり!』と気持ちを切り替えることができた、と言っていました」

 そうして迎えた、200mでの連続銅メダルだったのである。

 中村が「チーム平井」の門を叩いたのは、アテネ五輪の前年、03年秋のことだった。03年世界選手権には100mで出場したが、自分のメイン種目と考える200mでは代表になれなかった。「世界と戦うためには2分10秒を出さなくてはいけないと考えて練習していたけれども、試合前になると不安になりすぎて結果につながらなかった」と、悩みの多い日々を過ごしていた。

 そして、実際に世界選手権で200mを観客席から見ていた時、トップは当たり前のように2分10秒を切ってくるのを知った。

「『このままじゃ五輪に行けない。じゃあどうすれば......』と考えて、平井先生にお願いすることにしたんです。それまで指導を受けていたヨコハマSCでは基礎をつくってもらったから、それを試合で出す方法を平井先生に教えてもらおうと思いました」

 アテネ五輪では、無我夢中で泳いだ結果、銅メダルを獲得できた。

「アテネの映像を見ると、タッチした時の表情がびっくりしているんです。目標ではメダルと言っていたのに、いざそうなるとビックリしている自分がいたんです。五輪へ行きたいという思いで平井先生にお願いした時に、『メダルは獲れる』と言ってくれていたので、それを素直に信じていたけど、じつはそこまで理解していなかったのかもしれません」

 そう話していた中村だが、次の北京は「狙ってメダルを獲りに行く」という気持ちになっていた。自分の力をもっと信じてみたかったのだ。

「だから、05年の世界選手権はプレッシャーがすごかった。そこでメダルを獲ってこそ、アテネ(のメダル)が本物になるんじゃないかと思っていましたが、銅メダルを獲れたことで、ひとつ乗り越えられたのかなと思います」

 それでも北京五輪までは、常にプレッシャーと不安がつきまとった。

 06年の日本選手権では100、200mともに伊藤華英に敗れ、200mでは日本記録を塗り替えられた。8月のパンパシフィック選手権ではやっと前半から突っ込む勇気を持てて、200mで2分08秒86の日本記録を樹立した。07年3月の世界選手権ではその記録を2分08秒54まで伸ばし、同じく日本記録になった100mと共に銅メダルを獲得した。

 08年に入り、2月の日本短水路選手権200mで短水路世界記録を出す。ところが、4月の日本選手権では、プレッシャーに負けた。

「北京五輪の選考会は自分の中ではすごく大きいもので、アテネからの4年はそのスタートラインに立つためのものでした。短水路世界新はすごく励みになったけれども、それが自分で思っている以上のプレッシャーになってしまいました」

 200mは優勝したが、予選で日本女子初の59秒台を出した100mでは、翌日の決勝で伊藤がそれを塗り替える日本記録を出し優勝。中村は2位に終わった。「負けたというよりも自分の弱さがショックでした」と中村は振り返る。

 当時、「高速水着」と言われたレーザーレーサー着用に踏み切った6月のジャパンオープンでは、100m、200m共に日本記録を更新。戦う準備を整えたが、世界の200mはこの年になって一気にレベルが上がっていた。マーガレット・ホールザー(アメリカ)を筆頭に、4人が2分6秒台に到達。中村の記録2分08秒34は、北京五輪出場選手中で6位の記録にすぎなかった。

※レーザーレーサー/英国SPEEDO社開発の競泳用水着で、08年に入り着用した選手が次々と世界記録を出し、話題になった。

 そんななかでも中村は、「まだメダルラインではないけれども、自分がどこまで行けるかが楽しみです」「今は7秒台前半を目指して練習しているけど、どのくらい(のタイム)で戦いに行けるんだろうと思うと、アテネの時とは全然違うワクワク感です」と前向きな姿勢を崩していない。

 200mは、100mから中一日を置いて、8月14日から始まった。100mの失敗を糧にした中村は、冷静に戦った。予選では前の組のキルシティ・コベントリーが2分06秒76を出してきたが、自身は2分09秒77で12位通過。準決勝では2分08秒21の日本記録更新で4位通過、と少しずつ調子を上げていった。

「泳ぎの調子はよかったから、100mの失敗を生かして、予選から3本の泳ぎ方さえしっかりできれば、200mでは好転できると信じていました。平井先生と話したことで、それが確信に変わりました」

 16日の決勝で目指したタイムは、2分7秒0~1だった。予選から圧倒的な強さを見せていたコベントリーと世界記録保持者のホールザーは度外視し、自分の泳ぎをできれば3位には入れる、と考えていた。

 平井の指示は「準決勝では、最初は感覚的にも余裕を持って29秒98で入り、最後まで余裕を持って泳げていた。決勝でも余裕を持って最初の50mを入り、そこから100mまでは頑張るのではなく落とせ。そして、100mをターンしてから上げて行け」というものだった。

 中村はそのとおりに、最初の50mを30秒14の4番手で折り返した。次の50mもその位置を冷静に守り、100mを過ぎてから3番手のエリザベス・シモンズ(イギリス)をかわして3位に上がった。そしてその順位を維持し、2分07秒13のこれまた日本記録更新でゴールし、銅メダルを獲得。2分05秒24の世界記録で優勝したコベントリーや2分06秒23のホールザーには突き放されたが、狙って獲った銅メダルは非常に価値のあるものだ。

「150mをターンして『行ける』と思ったら、もう脚がガクガク震えちゃって......。残り50mは30秒もあるので長いから、ずっと『早くつけ、早くつけ』と思っていました。ゴールした瞬間はうれしいというよりも、礼子が喜んでいるだろうと思ってむしろホッとしました」

 そう言って平井は笑う。中村も「自分の泳ぎに徹しようと思って、とくにラスト50mは目をつぶるくらいの気持ちで泳いでいました。100m失敗の恐怖心もあったけど、今日は怖がらず積極的かつ冷静に泳げました。急激にレベルが上がったなかでつかみ取ったメダルだから、誇りに思います」と顔を綻ばせた。

 ゴール後、自分の銅メダル獲得を表示する電光掲示板をずっと見つめて、「(思いを)噛みしめていました」と言う中村。彼女はそのキャリアで、五輪2大会と世界選手権2大会で合計5個の銅メダルを獲得した。

 環境を変えるという冒険を決断して可能性を追い求め、努力を続けた結果つかみ取った、中村礼子らしいメダルだった。