根本陸夫外伝〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実連載第10回証言者・松永浩美(2) 阪神移籍1年目の1993年、…

根本陸夫外伝〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実
連載第10回
証言者・松永浩美(2)

 阪神移籍1年目の1993年、松永浩美は年間80試合の出場に留まった。シーズンを通して故障に悩まされ、3割近い打率を残すも規定打席に届かず。阪急、オリックスで11年間レギュラーを張ってきた男も、球団とファンの期待に応えられなかった。



FA宣言した松永浩美は西武、ダイエー、そして所属していた阪神とも交渉した

 一方、球界は同年オフからのFA(フリーエージェント)制度導入に向けて動いていた。途上、FAとドラフトとのリンクをめぐる紆余曲折を経て、「逆指名ドラフト」が成立。FA問題等専門研究委員会の意向は通らなかったが、9月23日の実行委員会において、新ドラフト制度とFA制度の実施を決定した。

 1カ月後、FA資格取得の60選手が公示。資格を与えられたのは、1シーズンの一軍出場登録が150日以上で、10シーズンを経ている選手。また、FA選手を獲得した球団は、その選手が在籍していた球団に金銭的な補償もしくは人的補償をすることが条件であった。

 当然ながら、60選手には松永も含まれる。選手会でFAを提唱し、改革委員長として制度導入に向けて動いてきただけに、動向が注目されていた。

 そのなかで10月半ば発行のスポーツ紙は<FA宣言1号 阪神・松永がダイエーへ>と見出しを付けた記事を掲載。7月に「今はまったく考えていない」と明言していたFA宣言をする可能性を示し、松永のコメントを載せた。

<その頃は、ほかの連中が権利を使うと思っていた。でも間近に迫った今、オレなりの感じでは、誰も宣言しそうにない。それじゃあ、今までオレたちは何のために動いてきたんだ、という思いはある。

 手を挙げても声がまったくかからないかもしれない。それぐらいのリスクは当然だし、自分の商品価値を問うのもプロなら恥ずかしいことではない。自信があるなら堂々と手を挙げるべき。オレはプロだ。一度、出ているんだ>

<出ているんだ>とは、移籍で古巣を出ているという意味。FA元年ならではの言葉とも言えるが、記事中には<阪神にとってはまさに衝撃的な発言だ>との一文もある。実際のところはどうだったのか──。松永に聞く。

「いざ権利を取得して、すごく迷ったんですよ。その年は故障もあったし、『このまま阪神を出るのもなあ』っていう気持ちもあって......。だから、宣言したうえで阪神に残留することも考えていた。マスコミには『ダイエー』と書かれていたけど、自分としてはフラットな状態。どちらかといえば、その時点ではまだ断る気のほうが強かったですね、根本さんが交渉に来られるとしても」

 同年にダイエー(現・ソフトバンク)監督に就任した根本陸夫は、9月から球団の代表取締役専務、球団本部長を兼務。オーナーから全権を与えられたチーム編成のトップ、実質的にGMになっていた。FAを宣言する選手がいれば、根本自身が獲得に動くことは報じられていた。

 11月2日、松永がFAの関連書類を投函。<改革委員長が自ら「FA宣言第1号」となった>と新聞記事は伝える。本人の「宣言」も載っている。

<自分のことをタイガースも含め全球団がどう評価してくれているか知りたい。不安はあるが、これからFA宣言する選手のためにも。若い選手にはいいFAの意識を持ってほしい。せっかく自由の権利を勝ち取ったのだから、もっともっと活発にやっていってほしい>

 記事によれば、阪神球団は<FAするかどうかは半々>と見ていた。移籍1年目だから<ない>との見方もあった。ただ、宣言期間前に一度も松永と会談せず、残留交渉に必要な資料も用意できず。「もうウチの人じゃないから、ひとりの名サードと話をすることになる」という球団社長の言葉にも熱さがない。松永が当時を振り返る。

「実際、阪神との交渉は拍子抜けしたんです。『え? 引き留めてくれないの?』というような感じがあって。何か温度差があったのかな。FA元年だけに、どういう対応をしていいか、たぶん球団はわかってなかったと思うし、こっちもわかってなかった。そんななかで話し合いをして、淡々と話をされて、終わって。『うーん、何だこれは』みたいな感じになったんです」

 11月27日、旧球団との占有交渉期間が終了。元年にFA宣言したのは松永のほか、中日・落合博満、オリックス・石嶺和彦、巨人・駒田徳広、そして同じく巨人・槙原寛己の5名。このうち槇原だけが巨人と再契約し、残る4人は移籍の可能性が高まった。その3日前に阪神と交渉した松永は「残念ですが、縁がなかったとしか言いようがない。ああいう条件では......」と語った。

 今では考えられないが、FAの残留交渉において、阪神は松永に同年の年俸9500万円(推定)以下のダウン提示をした、と報じられた。たしかに、周囲の期待どおりに活躍はできなかったが、実績十分の3番打者を本当に必要な戦力と考えているなら、ダウンはなかっただろう。結果、松永が移籍1年目にして阪神を出ていくことが濃厚になった。

 FA宣言をして以降、松永は阪神ファンの反感を買い、マスコミには阪神との対立関係を示す憶測記事を連発されていた。「甲子園は幼稚園の砂場と一緒」と発言したとされる記事が出ると、周りからバッシングを受けた。後年、「砂場」は記者が質問で発した言葉に過ぎず"誤報"と判明したが、松永自身、当時はマスコミに恐怖を感じていた。

「門田博光さんが(南海から)オリックスに移籍してきた時、すごいバッシングを受けたんですよ。『裏切り者』って言われたりしてね。その姿を見ているので、きっとオレも門田さんみたいになるんだろうな、とは思っていたけど......まあ、マスコミは怖いなと。でも、『オレがFA制度を提唱した意味は何だったんだ?』という原点に戻って、他球団との交渉に入ったんです」

 その時、正式に松永の獲得を表明していた球団はダイエー、西武。ただしそれ以外の球団からも話がきていたとのことで、まだ2つに絞られたわけではなかった。なにより、阪神に残留する可能性も完全にゼロではなかった。

 そして、他球団との交渉解禁日である11月28日、午前10時。松永は大阪のホテルで西武との交渉に臨む。続いて同日夜、6時半には同じ大阪の地でダイエーとの交渉に入ると、松永は初めて根本と正式に面と向かった。

「円卓の向こうに根本さんが座っているわけですよ。で、まず、クラウンライターから西武になった時に始まって、ライオンズを強くするためのプロセス、ご自身で考えていたプラン、ビジョンを語り始めたんです、ずーっと。西武ライオンズを強くするためにはどうしても田淵(幸一)がほしかった、この人がほしかった、という話をされたんですね。

 それから今度、僕の阪急時代の話が出てきました。『松永くんはすごく努力してきたし、苦労もしてきて、いろいろ野球も知っている。サードのポジションで長年、レギュラーを張ってきた。だから、そういう力をダイエーホークスは求めている。西武を強くした時に田淵をほしがったように、君もほしいんだ』と言われたんです。でもね、心は動かなかったんです、まったく」

 あくまでもフラットな状態で、松永は交渉に臨んでいた。自分をほしがる球団が自分をどう評価しているか、聞く時にはそうあるべき、と考えていた。だが、その2週間ほど前の11月16日、西武・秋山幸二とダイエー・佐々木誠を交換した3対3のトレード。根本がこの話を持ち出してホークスのチームづくりを語り始めた時、松永の心は揺れ動いた。根本は言った。

「君がまず来てくれることが前提だ。あのトレードもそうだ」

つづく

(=敬称略)