PLAYBACK! オリンピック名勝負---蘇る記憶 第24回

スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典・オリンピック。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あの時の名シーン、名勝負を振り返ります。

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 2008年北京五輪の8月11日に行なわれた競泳男子100m平泳ぎ決勝。大会連覇を狙う北島康介の心に、不安は一切なかった。



北京五輪男子100m平泳ぎで北島康介が連覇。レース後の北島(写真中央)と、ライバルだったハンセン(同左)とダーレオーエン(同右)

 レース前に平井伯昌(のりまさ)コーチから言われたのは、「勇気を持って、最初から大きくゆっくり行け」という言葉だった。北島は「コーチからはタッチ板までがレースだと言われていました。ひと掻きひと掻きを正確に丁寧に、リズムよくやろうと思っていただけです」と話す。

 ライバルと見ていたのは、04年アテネ五輪から競い合ってきた59秒13の当時世界記録保持者、ブレンダン・ハンセン(アメリカ)だ。しかし、9日の予選で北島が59秒52で泳いだのに対し、ハンセンは1分00秒36。翌日の準決勝も59秒94で5位通過と北島にとって脅威ではなくなっていた。

 一方、予選1位通過のアレクサンダル・ダーレオーエン(ノルウェー)が、準決勝で59秒16を出してきた。それに対して北島は、後半で伸びきらずに59秒55で2位通過と、タイムを落とした。

 ダーレオーエンはアメリカのフラッグスタッフ合宿では何度も一緒になり、実力をよく知っている選手だった。北島は「準決勝で彼が出した記録は僕にとって脅威だった。でも、彼がいてくれたおかげで自分も自分らしく泳ぐことができた」と言う。

 だが、平井コーチの言葉は少し違っていた。

「僕としては、100mで58秒台を出させてあげたかった。世界記録で金メダルという目標は僕も持っていたし、康介も考えていたと思う。ダーレオーエンが準決勝で59秒16を出してきたことは意識したが、脅威というよりも『(康介が)自分の泳ぎをすれば勝てる』という思いのほうが強かった」

 取材公開をした8月1日の直前合宿で北島は、飛び込んで50mを泳ぎ、1分ほど休んでから壁を蹴って50mを泳ぐタイムトライアルを行なった。その情報がライバルたちに流れるのを意識してのことだ。その際に、北島は27秒78と29秒19で泳いだ。合計すると56秒97。平井コーチの「試合ではプラス2秒」という試算で行けば、58秒台を出せる状態に仕上がっていた。その裏付けもあり、平井は自信を持っていた。

 決勝。スタートした北島は、平井の指示どおりに、スムーズで力みのない大きな泳ぎをした。前半50mのストローク数は、これまでの100mでは最小の16。27秒85で入ったダーレオーエンと、27秒97のハンセンに次ぐ3番手の28秒03で折り返した。

 そして、前回のアテネ五輪と同じようにターン後の浮き上がりでトップに立つと、その後はひと掻きひと掻きするたびにリードを広げていき、残り25mでは優勝を確信させた。ライバルたちを相手にしているというよりも、それはまるで自分自身の心と戦っているような泳ぎだった。後半の50mも平井の思惑どおりに進み、全選手最速の30秒88。2位のダーレオーエンを0秒29差で抑える58秒91の世界記録で、五輪連覇を果たした。

「ゴールして最初に電光掲示板を見た時に59秒91だと思い、『遅い!』と思ったんです。でも、見直したら58秒だったので、『もらったな』と思いました。体感速度はすごく速かったですね。理想の泳ぎをパーフェクトにできたと思います。見ている人にもそう言ってもらわないと、こっちも困るんで」

 ミックスゾーンでそう言って記者を笑わせた北島だが、レース直後のテレビインタビューでは、「何も言えねえ」と、しばらくタオルで顔を覆ったまま涙を流していた。安堵の涙だった。

 平井は笑顔でレースを振り返った。

「昨日の準決勝は失敗したレースだったので、それで康介自身も開き直れて、決勝では冷静に自分の泳ぎを心がけることができたのだと思います。予選と準決勝の反省から、ウォーミングアップではスタートの練習をさせたのですが、飛び込んでから浮き上がった時点でリードしていたから、『これは勝つな』と思いました。康介はなぜあんなに度胸よく、僕が指示したとおりにやってくれるのかな、と今さらながら思いますね。自分が大きな泳ぎをしている時に、隣でテンポの速い泳ぎをされると普通は焦るものなんですが」

 ゴール後、4位に終わったハンセンはわざわざレーンを2つ越えて北島のもとに駆けつけ、「すばらしい泳ぎだった」と祝福した。そのハンセンに対して北島は記者会見で、「彼とはすごく長い間勝負をしてきたし、この五輪で戦えることを楽しみにしていた」と話した。

 北島にとって北京の世界記録は、ライバルのハンセンをアテネ五輪後から追いかけ続けてきたからこその結果だった。

 04年のアテネでは、五輪王者になったものの、「上にはまだハンセンの世界記録がある」という思いが残った。さらに、「五輪で優勝した以上、次の目標は五輪以外にあり得ない」という思いもあった。だが、「そこまでの4年間は長いんですよね」と漏らした北島は、なかなか燃え上がってこない自分の心にモヤモヤし続けてもいた。

 なかでも、06年は最悪なシーズンだった。4月に行なわれた日本選手権は、翌年3月にオーストラリアで開催されるレースの代表選考を兼ねた大会だったが、200mでは表彰台にも上がれなかった。100mは優勝こそしたものの、派遣標準記録を破れず、代表決定は8月のパンパシフィック選手権(パンパシ)に持ち越された。そのパンパシに向けた高地合宿の出発直前には扁桃腺が腫れ、緊急入院を余儀なくされた。さらに、ハンセンがそのタイミングで100m59秒13、200m2分08秒74、という世界記録を出したのだ。

 北島は「アテネからの4年間で本当にどん底だったのは、あのパンパシの前でした。入院していたので何もできないわけですから」と振り返った。

 国内で、ひとりで練習をして、パンパシには何とか間に合わせた。その間の練習は、自分の状態をしっかり見極めながら、自分自身を知るための貴重な時間にもなった。平井はパンパシが行なわれるカナダで1カ月ぶりに北島と会った時、「成長したな」と感じたという。

「あれを機に、康介が自分でいろいろ考えるようになったことで、我々の関係性も変わってきた面があったかもしれません」

 そのパンパシでは、100mと200mの世界選手権出場権を獲得できた。だが、200m決勝で見せつけられたのは、ハンセンとの圧倒的な差だった。100mまでは並んでいたが、そこからジワジワ離され、ラスト50mでは一気に2秒以上の差をつけられた。しかも相手の記録は2分08秒50の世界新。「本気になって追いかけなければ、彼からライバルだと思われなくなってしまう」。北島の心に火がついた。

 北島にとって、07年3月の世界選手権は一筋の光が見えた大会だった。100m決勝では、それまでのように前半を28秒台中盤で入るのではなく、自身の50m日本記録に0秒01遅れるだけの27秒79で入る冒険をした。結果的には失速して59秒96の2位だったが、世界記録とほぼ同じ入りをしたハンセンも慌てたのか、59秒80と伸びなかった。それを見たことにより、北島は「実力は彼のほうが上だが、勝負になればつけいる隙がある。まだ彼は自分をライバルとして強く意識している」と確認することができた。

 そこから考えたのは、自分の技術を進化させて、北京五輪前に相手にプレッシャーをかけることだった。それを果たせたのは、08年6月のジャパンオープンだ。100mでは59秒44と4月の日本選手権に続いて日本記録を更新すると、200mでは2分07秒51の世界記録を叩き出した。本番直前になって、やっと戦う準備ができた。

 北島の北京五輪2冠目になった200mは、最強のライバルであったハンセンが不在だった。ハンセンはアメリカ国内の選考会で4位となり、代表権を逃していたのだ。つまり、北島にとっては勝って当然のレースでもあったが、「その分、プレッシャーも大きかった」と言う。だが、準決勝で2分08秒61の五輪新を出すと、決勝では最初から大きな泳ぎでリードを奪い、2位に1秒24差をつける2分07秒64で圧勝した。

 それでも、世界記録に届かなかった。そのことを確認した北島は、複雑な表情のまま拳を握った右手をゆっくりと差し上げた。

「五輪は勝つことが大事な場所だから、優勝できてよかったと思います。ただ、記録も期待していたから、『こんなもんかなぁ』という感じで……。いいレースはできたけど、最後は思ったより伸びなかった。レース前から2分06秒台を出すという欲を持って臨んだのが、よくなかったのかもしれません」

 それは、北島康介だからこそ感じる、ぜいたくすぎる不満でもあった。こうして北島は、日本人初の五輪2大会連続2種目制覇、世界初となる平泳ぎ2大会連続2種目制覇という快挙を成し遂げたのである。