【強豪校で「その他大勢」の選手に】

 新型コロナウイルス感染拡大の影響で、練習試合として行なわれた3月24日の中日ドラゴンズ戦。読売ジャイアンツの一番・センターとしてスタメン出場した選手のことをどれくらいの野球ファンが知っているだろうか。

 松原聖弥、25歳、背番号59。

 仙台育英(宮城)出身だが、甲子園でプレーした経験はない。2016年ドラフト会議で育成5位指名を受けて入団。身長173cm、体重72kgという体格はチームの中では目立たない。しかし、スター揃いのジャイアンツの中で、躍進が期待される若手のひとりだ。




巨人の一軍で活躍が期待される、育成入団の松原

 仙台育英では、福岡ソフトバンクホークスの上林誠知(うえばやし・せいじ)、阪神タイガースの馬場皐輔(ばば・こうすけ)、熊谷敬宥(くまがい・たかひろ)の1年先輩だった。チームは3年夏の甲子園に出場して2勝を挙げたが、松原はベンチ入りメンバーから漏れ、アルプススタンドから仲間を応援することしかできなかった。

 松原は高校時代のことを、書籍『レギュラーになれないきみへ』(岩波ジュニア新書)の中でこう語っている。

「甲子園に出るために、仙台育英に入りました。中学時代は硬式の強豪と言われるチームにいて、猛練習が当たり前という感じで。でも、仙台育英は選手の自主性重視なので、サボろうと思えばいくらでもサボることができる。僕の場合、楽なほうへ楽なほうへと行く性格だったので……まわりの選手との差がどんどんついてしまったような気がします」

 学校の授業が始まる前の朝練習は、参加を強制されることはない。やりたければやる、やりたくない選手はギリギリまで寝ていてもいい。

「でも、やる選手は毎日、ちゃんと起きて練習する。僕は全然、行きませんでした。全体練習のあともそう。居残り練習も強制じゃないので、早く上がっても問題ない。『高校野球の練習はこんなに楽でいいのか』と思いました」

 強豪校にありがちな厳しい上下関係もない。穏やかな空気の中で、松原はいつの間にか「その他大勢」の選手になっていた。

「練習する選手が伸びて、しなかった僕はそうではなかった。一学年下の上林は入学した時からすごかったですね。毎日、朝練習に行くし、自分で考えた練習をする。金属バットではなく木製を使っていましたから。高校の時から、プロを意識していたんじゃないでしょうか。僕はただただ、『すごいな』と思って見ていました(笑)」
 
【大学で野球を楽しみながら成長】

 もちろん、松原にチャンスがなかったわけではない。3年生が抜けて新チームになった2年生の秋、ベンチ入りメンバーに選ばれたが、イップスを発症したせいで戦力にならなかった。

「2年の秋の大会は、背番号はふたケタでしたけど、試合に出ていました。でも、送球ができなくなって、どんどん自信をなくしていきました。バッティングも走塁も縮こまってしまって……。最後の夏の大会もメンバーから外れてしまいました。メンバー外が決まったあとは、試合に出る選手のサポートに徹しました」

 松原がスタンドで応援する仙台育英は2012年夏の宮城大会で優勝し、甲子園では3回戦まで勝ち上がった。仙台育英のチームメイトが戦う姿を、松原はどんな気持ちで見ていたのか。

「みんなが甲子園でプレーするのを見て、素直にうれしかった。自分がユニフォームを着れなくて悔しいという思いはありませんでした。みんなが甲子園で、強い相手と戦うのを見て、『すごい』と思いながら応援していました」

 高校に進学する時に描いた、甲子園に出るという夢は実現しなかったが、松原には「やっぱり、野球は楽しい」という思いがあった。

「最後の夏の大会が終わってからも、僕はガンガン練習していました。むしろ、現役を引退したあとのほうが意欲的だったかもしれません。逆にレギュラーの中には燃え尽き症候群みたいになって、練習に身が入らない選手もいました」

 高校時代、プロ野球選手になることなど頭の隅にもなかった。ただ、野球を続けたいと強く思っていただけ。

 松原が進んだ明星大学は、首都大学リーグ2部のチーム。名門でも強豪でもない環境が合っていたのかもしれない。ポジションを内野(主に二塁手)から外野に変えて、首都大学リーグ2部において、2年春から5シーズン連続でベストナインに選ばれた。

「打率はずっと3割5分を超えていました。自信がついてくると、もっと野球が楽しくなる。そうするといい結果がついてくる。少年野球の時のような楽しさを思い出しました。4年生になった時、監督から『育成ならプロに行けるかもしれない』と言われ、チャンスがあるならプロで! と考えました」

【イースタン・リーグ記録を更新する134安打】

 2016年ドラフト会議で、松原は育成選手5巡目で指名を受けた。一軍の試合に出場できる支配下選手ではないが、プロ野球選手として名門のユニフォームを着ることになった。

 背番号は3ケタの009。契約金ではなく支度金が300万円。推定年俸は240万円。はじめは三軍でのスタートになるが、支配下選手になれば一軍でもプレーすることができる。プロ野球では、二軍の下に独立リーグや社会人、大学などと対戦する三軍がある。松原はそこで力をつけていった。

 1年目の2017年には100試合に出場して打率.332、1本塁打、45盗塁を記録。2018年の春季キャンプでは一軍のキャンプメンバーに選ばれた。7月に支配下選手登録され、一軍でプレーする権利を獲得。年俸は420万円に上がり、背番号は59番に変わった。

 この年、松原は二軍で117試合に出場し、打率.316をマークした。24盗塁はイースタン・リーグで2位。それまでのリーグ記録を更新する134安打を放った。

翌2019年は一軍の春季キャンプメンバーに選ばれたものの、ほどなく二軍落ち。イースタン・リーグでも打率は3割に届かず(.287)、盗塁は17個にとどまった。

「去年は、一軍に呼んでもらった時に『打てなかったらヤバイ。打てなかったらどうしよう』という気持ちになってしまいました。自分にはメンタルの強さが足りないと思います。まだ本当の自信がないから、そういう気持ちになるんだと思います。しっかり練習して自信をつけるしかない。練習を積んでいい結果を手繰り寄せれば、一軍に呼ばれた時にアグレッシブにプレーできるはずです」

 松原のセールスポイントは、確実性のあるバッティングとスピード。メジャーリーグで長く活躍し、2019年からジャイアンツに在籍している岩隈久志は、松原のバッティングを見て「二軍の選手のバッティングじゃない」と驚いたというエピソードがある。

「僕はホームランバッターではないので、ヒット+盗塁で勝負します。プロのすごい選手たちを見て、そう思いました。プロに入ってから、スタートの仕方、リードの取り方、スライディングもすべてコーチに教えてもらいました。走塁のコツが少しわかるようになってから、走ること、走塁の魅力にハマっていきました。盗塁の魅力は、癖を盗んだり、スキを突いたりするところ。相手との読み合いが面白いです」
 
【いつ花が咲くかはわからない】

 プロ野球を見渡してみると、少年時代、アマチュア時代に「エースで四番」だった選手ばかり。松原ほど、補欠の気持ちがわかる選手はいない。控えに甘んじている若い野球選手に対して、彼はこんなメッセージを送る。

「野球に限らず、そのスポーツを好きだからやっているのだと思います。競技を素直に楽しむようにすると、絶対に嫌いにはなりません。実際に僕はそうしてきました。

 今いるチームではなかなか出番がないかもしれないけど、そこで終わりじゃない。チャンスはいつ巡ってくるか、いつ花が咲くかはわかりません。だから、あきらめないでほしい。高校野球がすべてじゃないし、甲子園で終わりじゃないですから。少年野球の時に僕の控えだった選手も、社会人野球でバリバリ活躍していますしね」

 その選手がいつ成長するかは誰にもわからない。指導者にも、本人にも。だから、あきらめることなく、打ち込むことが重要なのだ。

 甲子園に出られなかったプロ野球選手はたくさんいるが、3年生の時に、甲子園でプレーする同級生をアルプススタンドで応援するという経験をした人はほとんどいない。

「でも、そのほうがカッコよくないですか? そこからプロ野球選手になるのが。僕は人と違うというのが、好きなんですよ。本当にあきらめずに、やってきてよかった」

 チャンスに恵まれなくても頑張ることができたのは、ずっと野球が好きだったから。その思いを抱いたまま、高校時代に補欠だった松原は、育成選手から「巨人の星」になろうとしている。