PLAYBACK! オリンピック名勝負---蘇る記憶 第23回

スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典・オリンピック。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あの時の名シーン、名勝負を振り返ります。

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 2008年北京五輪、8月13日午前に行なわれた競泳男子200mバタフライ決勝。そこは、松田丈志が4年間かけてたどり着いた勝負の場だった。



北京五輪男子200mバタフライで見事銅メダルを獲得した、松田丈志

 松田は、子どものころから宮崎県延岡市の東海中学にある25mプールを泳ぎ込んで成長してきた。そのプールは、施設を温室のようにビニール張りで囲ったもの。高校3年生だった02年には、400mと800m自由形で高校記録を樹立し、日本選手権では200mバタフライで第一人者の山本貴司に次ぐ2位に入った。その200mバタフライと、400m自由形、1500m自由形で、アジア大会にも出場した。

「日本の自由形長距離を世界に通用させるようになりたい」という、この当時に松田が語っていた目標は、マンツーマンで指導をする東海SCの久世由美子コーチとともに追い続けていた夢だった。

 その最初のステップは、400mと1500m自由形、200mバタフライで出場した04年アテネ五輪だった。だが、唯一決勝に進んだ400m自由形は、5月に出したアジア記録に0秒15まで迫る3分48秒96と力を出し切ったものの8位。メダル圏内の3位との差は4秒85もあった。4月の日本選手権でアジア記録を出した1500m自由形でも予選13位で敗退し、世界との差を思い知らされる結果に終わった。

 この大会で、日本チームは北島康介の2冠と柴田亜衣の金メダルの計3個に加え、銀1銅4を獲得するメダルラッシュだった。帰国後の成田空港で、松田は敗者として帰ってきた悔しさを感じた。

 祝福されるメダリストの中には、男子200mバタフライでアジア新の1分54秒56を出し、前年の世界選手権に続いて銀メダルを獲得した山本がいた。一方、松田自身は、その200mバタフライで準決勝14位という結果に終わっていた。メダリストたちの姿を見て、松田は「五輪はメダルを獲るべき場所だ。次の北京は200mバタフライでメダルを獲る」と決意した。

 山本が休養した05年は世界選手権の200mバタフライで銀メダルを獲得し、北京へかける思いを強くした。だが彼と久世コーチは、バタフライに専念するスタイルを取ろうとはしなかった。自由形と両立してきたからこそバタフライが強くなった、という確固たる信念があったからだ。

 松田がまず取り組んだのはスピード強化だった。記録を伸ばすためには後半のスタミナだけではなく、前半の速い突っ込みも必要になるからだ。その成果は06年に200m自由形の日本記録樹立につながった。

 だが200mバタフライでは、06年に1分55秒49まで伸ばしたところから停滞した。前半から飛ばすスタイルに変えたことで力みも出て、持ち味だった後半の伸びを殺してしまったのだ。07年世界選手権では1分54秒99を出した柴田隆一に記録でも抜かれ、08年4月の日本選手権で五輪代表は決めたものの、結果は2位。このままだと2番手の位置に甘んじることになりそうだった。

 そこで決断したのは、当時所属していたメーカーの水着から、多くの選手が好記録を連発していた競合他社の水着に変えることだった。

「すごく葛藤があったし、最後の最後まで迷いました。でも、五輪の年なので勝負をしたいと思った。日本代表として戦う以上はベストの選択をするしかないと思い、コーチとも相談したうえで、最終的には自分で決めました」

 その水着を着用して臨んだ6月のジャパンオープンで1分54秒42を出し、アテネ五輪で山本が出した日本記録を更新した。このタイムは、同年の世界ランキング4位につける記録であり、松田は、メダル争いができるところまで実力を上げて北京五輪を迎えた。

 競技初日、400m自由形予選は10位で決勝進出を逃したが、タイムは3分44秒99の日本新で、好調さは見せていた。3日後の200mバタフライ予選は、1分55秒06で4位通過。翌日の準決勝では、五輪新の1分53秒70で泳いだ怪物マイケル・フェルプス(アメリカ)に0秒32差で世界歴代3位となる1分54秒02で2位通過し、さらに調子を上げていった。

 そして、8月13日の決勝。100mは、準決勝より0秒28速い54秒41の3番手で折り返した。そのあとの50mでは、追い上げてきたラースロー・チェ(ハンガリー)にかわされて0秒19差をつけられ、150mでは4番手に後退。だが、松田自身は「前半は準決勝と同じくらいで行って、後半を上げるイメージで行きました。すごく落ち着いて泳げて、100mをターンしたあたりで『メダルは行ったな』と思いました。ラスト50mはチェとの勝負と思っていました」と冷静だった。

 松田はチェと競り合いながら2番手にいたモス・ブルメスター(ニュージーランド)をかわしたものの、チェと0秒08差の3位。それでも、記録は1分52秒97のアジア新だった。また、世界記録で優勝したフェルプスに対しても「胸を借りるつもりだったけれども、思ったよりもついていけた」と言うように、0秒94差まで迫っていた。

「とにかく自分のベストを出せば結果はついてくる、と思っていました。いいペースで行けたと思うし、すごく進むなと思って泳いでいました。1分52秒台は目標にしていた記録だけど、実際に出せるとは思っていませんでした。本当に、我ながら『速いな!』と思いました」

 4年間ずっと追いかけ続けてきたメダルだ。決勝の前には、「行けるな」と思ったら涙が滲みそうになったという。だが「泣くのはレースが終わってから。メダルを獲ったら泣こう」と気持ちを引き締めた。そしてゴール後には掲示板を何度も見直し、自分の順位をしっかり確認してからガッツポーズをした。

「久世コーチとここまで二人三脚で来たことに誇りを持っています。それを、メダルという形で残せたことは本当にうれしい。この4年間は結果が出なくて苦しい時もあったけれども、コツコツ努力をしてきてよかった。この銅メダルは、4年間頑張ってきた自分色のメダルだと思います」

 そう言って穏やかな笑みを浮かべた松田は、次の12年ロンドン五輪では主将としてチームをまとめながら、200mバタフライで銅メダルを獲得した。さらに400mメドレーリレーで銀メダルを獲得した際に、この大会の個人種目でメダルがなかった北島康介を「手ぶらで帰らせるわけにはいけない」とコメントしたことでも話題を集めた。

 さらに800mフリーリレーのみに出場した16年リオデジャネイロ五輪では、アンカーとして3位を死守する泳ぎで、同種目52年ぶりのメダル獲得に貢献した。

 松田がメダルを目指し始めた頃の自由形長距離には、グラント・ハケット(オーストラリア)という怪物がいた。そして、アテネ五輪以降の200mバタフライにはマイケル・フェルプスという最強の選手がいた。そんな種目を選んだことを、松田は「そういう運命なんでしょうね」と言って微笑む。彼らと競いながら五輪で獲得したメダルは、銀1銅3。世界選手権では、銀2銅1だった。

 松田丈志のこの結果は、価値のある、本当に彼らしい、競技人生の大きな勲章だ。