2020年のセクシーフットボール 野洲高校メンバーは今平原 研(2)今から14年前。「セクシーフットボール」と呼ばれた、…

2020年のセクシーフットボール 野洲高校メンバーは今
平原 研(2)

今から14年前。「セクシーフットボール」と呼ばれた、卓越したボールテクニックとコンビネーションによるサッカーで、並み居る強豪を倒して全国初制覇を成し遂げた、滋賀県の野洲高校を覚えているだろうか。ファンの熱狂を呼んだあのサッカーを当時のメンバーに聞く。

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 攻撃的かつ多彩なプレースタイルで、2005年度の全国高校サッカー選手権大会で日本一に輝いた、滋賀県立野洲高校。優勝メンバーのうち、青木孝太(元ジェフユナイテッド市原・千葉など)や楠神順平(元川崎フロンターレなど、現南葛SC)、乾貴士(現エイバル)など、6人がプロになった(ほかに、内野貴志/現MIOびわこ滋賀、田中雄大/現ブラウブリッツ秋田、荒堀謙次/元栃木SCなど)。


全国優勝した14年前の野洲高校で、チームメイトから

「いちばんうまい」と認められていた平原研

 そんなタレント集団で背番号10を背負い、チームメイトが「ケンがいちばんうまい。天才です」と口をそろえるのが、平原研だ。

 しかし、彼にプロからのオファーはなかった。

 もっとも彼自身は、高校2年生の時に「プロは無理やろうな」と思っていた。

「自分がいちばんうまいと思っていたのならば、プロを目指していたかもしれないです。でも、高校2年生の終わり頃には、無理やなと思ったんです。チームメイトは『ケンがいちばんうまかった』みたいに言ってくれるので、それはすごくうれしいんですけど、周りに(楠神)順平とかがいましたからね」

 サッカーの世界から離れ、現在は野洲高の同級生が立ち上げた、運送会社のナンバー2として奮闘する平原は、17歳の時の決断についてそう振り返った。

「プロではできないだろうと、薄々感じてしまって。プロになった順平や(青木)孝太とかと比べると、身体能力がなくて(当時は173cm,60kg)。プロって、そういうところが問われるじゃないですか。だから、自分は無理やろうなって」

 平原の才能の片鱗は、幼少期からあった。平原と小学1年生からの幼馴染で、野洲高でキャプテンを務めた金本竜市によると、「ケンは小1の時から、相手の逆をとっていた」という。

「ケンはボールの触り方や相手の逆をとることとか、年齢を経て修得することを、小学1年生の時にできてたんです。だから小1の時と、高3の時のプレースタイルは一切変わっていないんですよ」(金本)

 平原はドリブルが得意なことから「ドリケン」と言うあだ名で呼ばれていた。スピードがあるわけではないのに、歩くようにすいすいと相手をかわしていく。その姿を見た金本は「ひとりで全員抜くんちゃうか!?」と驚いたという。

 幼稚園でサッカーを始めると、楽しさにのめりこみ、小学生時代にリフティングを1万回できるようになった。誰よりもたくさんボールに触り、家の中でもボールを蹴っていた。その甲斐あって仲間内ではダントツにうまく、「同学年の中では、負ける気がしなかった」という。

 小学6年生の時は平原と楠神が関西トレセンの上位30人に残り、平原だけがナショナルトレセンに選ばれた。中学生のセゾンFCの時は、楠神や青木、一学年下の乾など、のちにプロになる選手がいる中で、クラブでいちばんうまい選手がつける「背番号1」を背負うなど、誰もが認める存在だった。

 高校では背番号10を背負い、鮮やかなスルーパスを連発。中心選手として挑んだ選手権では、青木とのホットラインでゴールを次々にアシストした。

 平原は「僕は常に孝太を見ていました。やっぱり、あいつがいちばん点を取るんです。両サイドの順平や貴士がドリブルで突破できるので、僕はゴールに直結するパス、アシストのことだけを考えていました」と振り返る。

 選手権でもっとも印象に残った場面を尋ねると、小中高と12年間、指導を受けた岩谷篤人コーチ(当時のセゾンFC監督、野洲高コーチ)に褒められたプレーを挙げた。

「試合が終わったあとにみんなでビデオを観るんですけど、その時に岩谷さんが褒めてくれたプレーがあるんです。3回戦の高松商業戦で、僕が順平にワンタッチで出したパス。アウトサイドでバックスピン気味に蹴ったボールなんですけど、それを褒めてくれたのが印象に残っています。めったに褒めてくれないんで(笑)」

 前半9分のプレーだった。ペナルティーエリアの外で味方からの落としパスを受けた平原は、全速力で駆け上がる楠神に向けて、浮き球でバックスピンをかけたパスを出した。楠神のスピードを殺さない、定規で測ったかのようなパス。時間と空間を操る、才気あふれるプレーだった。

「高校サッカーを変える」を合言葉に、誰も見たことのない革新的なスタイルで日本一に輝いた野洲高。”セクシーフットボール”の中心として活躍した平原にとって、高校3年間はどんなものだったのだろうか。

「高校時代は、それまでやってきたことが報われた3年間だったと思います。小中の頃は怒られながらプレーすることが多く、サッカーを楽しいと思うことは少なかったんですけど、それでも続けてきて、最後はみんなで優勝できた。サッカーをやってきてよかったなと思いました」

 優勝したメンバーは、それぞれが異なる個性の持ち主だった。ゴールに向かって一直線に進む青木が最前線にいて、楠神と乾の両サイドはスピードとテクニックで相手の守備を無力化した。中盤の底ではキャプテンの金本が長短のロングパスで攻撃をリードし、相手ゴールに近い位置では、平原のパスが猛威を奮った。

 異なる個性を持った選手がひとつの画を描き、イメージが結実した時にすばらしいプレーが生まれる。野洲スタイルが、今でも多くの人の記憶に焼きついているのは、誰も見たことのないイメージを全員で具現化したからだろう。その中心にいたのは、間違いなく背番号10だった。

 平原は中学、高校とチームの中心としてプレーしたが、チームメイトからの評価とは裏腹に、プロになる道をあきらめ、早くから大学進学を考えていた。


チームメイトの評価とは反対に、平原は高2の時にプロをあきらめていたという

 photo by Sportiva

「大学卒業後のことを考えて、近畿大学に行きました。サッカーは4年間やったんですけど、関西1部リーグと2部リーグを行ったり来たりでした。ただ、途中でサッカーを辞めようとは思わなかったんです。同級生にめっちゃ頑張るヤツがいて、そいつを見ていると、サッカーで大学に入らせてもらったので、中途半端な形でサッカーを辞められないなと思って」

 大学1年生時からトップチームでプレーした。高校時代同様、ボランチとしてチームを操っていたが「フィジカルで潰されることも多く、周りの選手と変わらないぐらいでした」と振り返る。

 現在は野洲高時代の同級生が立ち上げた、運送会社で働いている。チームメイトの多くが今もサッカーと関わりを続ける中で、平原は早くから違う道を選んだ。しかし、サッカーの育成についての話を向けると、こんな答えが返ってきた。

「自分が小学生、中学生の頃に、『この試合に勝て』と言われたのは、最後の大会だけなんです。それまでは、試合に勝つことよりも、内容に目を向けていました。大会で優勝することよりも、先を見据えて指導してくれたんだと思います。今振り返ると、それがよかったのかなと思います」

 インタビューの終わりに、平原は「今でもプロとしてプレーしている仲間がいるのは、うれしいですよね」とつぶやいた。

 野洲が優勝を遂げた14年前、『サッカーインテリジェンス』という言葉は一般的ではなかった。そんな時代にあって、平原のプレーはインテリジェンスの塊だった。その意味では、”早すぎた天才”だったのかもしれない。

 プロになる夢は叶わなかったが、野洲高の10番が見せたプレーは、記録と記憶の中で輝き続ける。そのきらめきは、決して色褪せることはないだろう。
(おわり)