2016年。セ・リーグのペナントは広島が投打に圧倒的な強さを見せ1991年以来、25年ぶりの優勝を飾った。9月10日。東京ドームで巨人に逆転勝ちし、首脳陣、選手、ファンが歓喜に沸く中、特別な思いで優勝の瞬間を見届けた男がいた。1984年から…
2016年。セ・リーグのペナントは広島が投打に圧倒的な強さを見せ1991年以来、25年ぶりの優勝を飾った。9月10日。東京ドームで巨人に逆転勝ちし、首脳陣、選手、ファンが歓喜に沸く中、特別な思いで優勝の瞬間を見届けた男がいた。1984年から87年までカープに在籍し、昨年までオリックスの監督を務めた森脇浩司氏だ。
■25年前に亡き親友と見届けた歓喜の瞬間、森脇氏が秘める特別な思い
2016年。セ・リーグのペナントは広島が投打に圧倒的な強さを見せ1991年以来、25年ぶりの優勝を飾った。9月10日。東京ドームで巨人に逆転勝ちし、首脳陣、選手、ファンが歓喜に沸く中、特別な思いで優勝の瞬間を見届けた男がいた。1984年から87年までカープに在籍し、昨年までオリックスの監督を務めた森脇浩司氏だ。
25年前の優勝は福岡市内にある病院の一室で故・津田恒実氏と一緒に見守っていた。森脇氏と津田氏の関係はここで語るまでもない。炎のストッパーと呼ばれた津田氏は「弱気は最大の敵」を座右の銘にするほど気持ちを前面に出した投球が持ち味だったが、1993年に脳腫瘍で32歳の若さでこの世を去った。病と闘いながら球界復帰を諦めなかった右腕を森脇氏は最後の最後までサポートし続けた。リハビリに最適な地を探し周り、福岡の病院も紹介した。当時、カープが誇る絶対的守護神は歓喜の瞬間をマウンドではなく病院のベットで迎えていた。
「あの日はよく覚えています。テレビのブラウン管に映ったカープの優勝の瞬間を津田はじっと見ていました。山本浩二さんが胴上げされるシーンは感動的でしたね。津田と一緒に私も見ていましたが変に気を遣うことはなかった。嬉しさ、悔しさ。色々と複雑な思いがあったと思いますが、本当にチームの優勝を喜んでいた」
津田氏が病に倒れたのは1991年4月。開幕直後の巨人戦で1点リードの8回に登板するがわずか9球で同点に追いつかれ降板する。試合後に体調不良を訴え病院で検査を受けると「悪性の脳腫瘍」と診断された。ストッパーを失った広島は勢いの乗れないまま7月を迎えた。それでも山本監督、コーチ、選手たちは諦めなかった。
「山本浩二さん、山崎隆造さんら、みんながお見舞いに訪れてくれた。当時の合言葉は『ツネを優勝旅行に連れて行く』。チーム全体が一体となって試合に挑んでいた。津田も、もう一度マウンドに上がることだけを考え、懸命にリハビリを頑張っていましたから。今年のカープと同じように一体感を感じるチームだった」
■毎年続けている墓前での報告、「全てが終わった時にまた報告ができれば」
闘病生活を続けていた右腕は本人の意向によってカープを退団することになる。だが、津田氏はカープの優勝を見届けると「あのマウンドに立つ」と現役復帰を諦めることはなかったという。
「一時は自分で体を起こすことさえできなかったが、本当に1日、1日過ぎるごとに出来ることが増えていった。厳しいリハビリを耐え抜いた津田の頑張りが一番だったけど、キャッチボール、ランニングをする姿を見て本当に奇跡はあるんだなと思いました。このまま順調にいけばNPBに戻ってこられる。私も本当にそう思うほどだった」
だが、体調が再び悪化すると、1993年に32歳の若さでこの世を去った。森脇氏は同年に結婚するが、披露宴の席には津田氏の席を用意。カープ時代に共に汗を流した親友の姿はそこには無かったが、キャンドルサービスを行い、コース料理も参列者と同様に振る舞われた。今でも家族ぐるみの付き合いは変わらない。毎年、津田氏が眠る山口県の墓前に向かい1年の報告を行っている。
「今年のカープはよくメディアで『神っている』と表現されるほど劇的な試合が多かった。準備を怠らなかった選手、その選手たちを育ててきた首脳陣、フロントの地道な努力と的確な補強、そして、何より選手以上に日々準備に最善を尽くしたチームスタッフに菊池さんをはじめとするグラウンドキーパーの方々、全ての要素がかみ合った必然的勝利であったのは間違いない。
改めて心からのお祝いと一野球ファンとして多大な感動を頂いたお礼、尊敬の念をお伝えします。けれど、少し天国から津田が後押ししてくれたのかなと思いたい。クライマックス、日本シリーズと試合は残っています。大舞台こそ習慣勝負、自分を信じ、チームを信じる。期待せずにはいられない。シーズン、全てが終わった時にまた報告ができればいい。空の上から津田もこの瞬間を待っていたと思うから」
◇森脇浩司(もりわき・ひろし)
1960年8月6日、兵庫・西脇市出身。56歳。現役時代は近鉄、広島、南海でプレー。ダイエー、ソフトバンクでコーチや2軍監督を歴任し、06年には胃がんの手術を受けた王監督の代行を務めた。11年に巨人の2軍内野守備走塁コーチ。12年からオリックスでチーフ野手兼内野守備走塁コーチを務め、同年9月に岡田監督の休養に伴い代行監督として指揮し、翌年に監督就任。178センチ、78キロ。右投右打。