バルセロナの不安定な魅力2

 世界最高の選手、リオネル・メッシはどのように生まれたのか。その答えを知ることは、バルセロナの本質へ迫るに等しい。

「小さな選手に目をかけろ」

 現代バルサの始祖とも言える故ヨハン・クライフは、そう主張している。

「小柄なことはマイナスではない。(ユース年代で)小さくて目立つ選手は、大きな選手を相手にボールテクニックで打ち負かす術を、時間をかけて身につけている。だから大人になって、大柄な相手にも自然と優位を得られるのだ」



故ヨハン・クライフ元バルセロナ監督(右)とシャビ・エルナンデス

 バルサにおいては、技術が第一に問われてきた。

 下部組織「ラ・マシア」では、相手の守備を壊すプレーを叩き込まれる。人とボールの動き方をオートマチズム化し、その精度と速度を高める。「ボールありき」のプレーモデルのなか、選手は技術をとことん鍛えられる。シャビ・エルナンデス、アンドレス・イニエスタという小柄な2人は刺激し合い、その技を極めてきた。そして変異的に力を持ったメッシという最高傑作が生まれたのだ。

 そのルーツが、クライフが作った”ドリームチーム”と言える。

 1988年にバルサの監督に就任したオランダ人クライフは、「ジーザス(神)」とまで崇められる。1990-91シーズンからリーガエスパニョーラで4連覇を達成しているが、そのうち3回が最終節での逆転優勝だった。1991-92シーズンには、クラブ史上初のチャンピオンズカップ(現在のチャンピオンズリーグ)優勝をもたらした。

「偶然や奇跡ではない。我々は自分たちが信じた戦いを貫いてきた。それが最後に実っただけだ」

 クライフはそう述懐しているが、容易いことではない。

 実に派手なチームだった。5-0で相手を沈めたかと思うと、中堅以下のクラブにあっさりと足元をすくわれた。前がかりの布陣だけに、カウンターに脆かった。それでも危険を冒して攻撃に挑むスリルが、人々を虜にした。

 もっとも、クライフ自身は大まじめだった。まず、ラ・マシアからトップチームまで一貫した戦い方、システムを用いるように徹底している。アヤックスがひとつのモデルだった。実は、それまでのバルサの下部組織は、それぞれの年代のチームが勝手に戦っていた。一貫した組織にすることによって、選手のスカウティングから成長プロセスまで、効率性を高めたのだ。

 クライフの薫陶を受けたのが、ジョゼップ・グアルディオラだった。ユース時代のグアルディオラはプレービジョンとダイレクトプレーに長けていた。ただ、細身でパワーに欠けることから、トップ昇格には慎重な声が多かったが、クライフによって引き上げられた。そしてトップチームのプレーメーカーとして指名されたのだ。

 クライフはボールプレーヤーを重用した。恐れずボールを回せる技術があるか、集団の中で相手をかいくぐって攻撃を作り出せるか。体格は度外視だった。サイドバックではアルベルト・フェレール、セルジ・バルファンの2人をトップに引き上げているが、いずれも小柄だ。

「走るな。ボールを走らせろ」

 それがクライフの哲学で、ラ・マシアの信条となった。

 しかし、クライフはその栄光をラ・マシア出身選手だけで勝ち取ったのではない。主軸を担ったのは、むしろ圧倒的な技量のある外国人選手だった。フリスト・ストイチコフ、ミカエル・ラウドルップ、ロナルド・クーマン、そしてロマーリオ。バルサの戦いのプレーモデルを革新させたのは、世界トップレベルの選手たちだった。

 そしてあまり知られていないことだが、主要ポジションを任されていたのは、筋骨隆々としたバスク人選手だった。GKアンドニ・スビサレータ、MFアンドニ・ゴイコエチェア、ホセ・マリア・バケーロ、チキ・ベギリスタイン、FWフリオ・サリナス。肉体的な利点があるだけでなく、献身的にチームのために尽くすことができた。

 先進的なクライフは、このドリームチームをさらにスケールアップさせる野望を持っていた。1994-95シーズンに4位と低迷し、「ひとつのサイクルが終わった」と囁かれた時、クライフはルイス・フィーゴ、ロベルト・プロシネツキ、ゲオルゲ・ハジなど実力のある外国人選手を獲得する一方、ラ・マシアの若手を大量に抜擢した。その中には息子のジョルディ・クライフもいた。

 1995-96シーズンは、ドリームチーム2の挑戦だった。

 クライフはより効果的にパスをつなげるため、GKにもフィールドプレーヤー同様のボール技術が求めた。そこで下部組織からカルレス・ブスケッツ(セルヒオ・ブスケッツの父)を抜擢。リベロGKの誕生だった。

 しかし、ブスケッツは足技に優れていたが、セービングに深刻な問題を抱えていた。さらに、相手をかわそうとしてボールを奪われるシーンは目を覆うばかりだった。不必要な失点を重ねた。

 各選手の技術がクライフの理想に追いつかない。ブスケッツはその象徴だった。結局、ラ・マシア中心のドリームチーム2は絵に描いた餅に終わっている。

「クライフのサッカーが独特だと思い知らされたのは、ほかのチームに移籍してからだよ」

 ドリームチーム2の一員としてプレーしたファン・カルロス・モレーノはそう洩らしていた。

「クライフは常にボールを支配することを望んでいた。ラ・マシアでも、どのカテゴリーでも、パスを回すのが大前提で、アバウトなロングパスなんてありえなかった。でも、外の世界ではそれが常識だったんだ。自分の頭の上をボールが行きかう、見たこともない状況でどうプレーすべきか、しばらくは苦悩したよ」

 その特異性にバルサの真実はあった。それからメッシが活躍するまでには20年を擁した。時間が必要だったのだ。

 1996年5月、クライフは成績不振を理由に解任され、チームを去った。以後、二度とクラブの監督をしていない。
(つづく)