琉球ブルーオーシャンズのキャンプ地である沖縄・東風平(こちんだ)球場のネット裏で、吉村裕基は快活な表情を見せた。両腕の…

 琉球ブルーオーシャンズのキャンプ地である沖縄・東風平(こちんだ)球場のネット裏で、吉村裕基は快活な表情を見せた。両腕の筋肉は入道雲のように盛り上がり、とても2年前にNPBを退いた選手とは思えない。



沖縄という地に可能性を感じたと語る吉村裕基

 吉村は2002年に東福岡高校からドラフト5巡目で横浜ベイスターズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に指名された。

「もともと高校ではピッチャーをやっていたので、同級生からは『ピッチャーでプロに行くの?』と言われましたが、スカウトの方からは外野かサードだなと」

 奇しくも、同年のドラフトで横浜が自由枠で指名したのが、高校の4年先輩で日大時代に20本塁打を打った大学屈指の強打者・村田修一だった。村田も大学に進学して、投手から野手に転向していた。

「大卒の即戦力と高卒じゃ、全然立場が違いました。でも、やるからには先輩を追い越したいと思っていたんですけどね」

 こうしてプロの世界に足を踏み入れた吉村は、内野手として3シーズンを過ごしたが一軍定着はならなかった。おもに一塁を守ったが、守備でも迷いがあった。

「今になってみればわかるんですけど、ゴロを『正面に入って捕れ』って言われると、体がガチガチになっちゃうんですよ。去年、アリゾナでMLBのキャンプを見させてもらったのですが、向こうの選手はそういう動き方はしません。自分の動きやすい体の使い方を考えている。僕はまず、そういうところで行き詰まってしまった……」

 3年目の2005年は故障もあって、一軍出場はなし。3年間でわずか6安打、1本塁打の成績しか残せなかった。

「牛島(和彦)監督になって2年目に外野コンバートの話があったんです。もちろん、外野にもいい選手はいっぱいいましたけど、ダメだったら終わりだろなという気持ちでチャレンジしました。プロは飛び抜けた選手ばかり入ってくる世界で、そんなにチャンスはないけど、見てくれている人がいると思って頑張りました」

 4年目の2006年は規定打席に未到達ながら打率3割をマーク。翌年には村田と中軸を組むまで成長した。

 そして2008年にはキャリアハイの34本塁打、91打点をマーク。また、外野手としてリーグ最多の11補殺を記録するなど、身体能力の高さを証明してみせた。

 しかし尾花高夫監督が就任した2010年、吉村は不振もあって、先発を外れる日が多くなった。

「僕に取って代わるような選手はたくさんいました。それに僕は初球からガンガン振るのですが、出塁率とか選球眼とか言われると手が出なくなる。『低めのボールは振るな』と言われるのですが、僕にとってそのコースはいい当たりになるか、凡ゴロになるか、紙一重なんです。よく初球のスライダーを空振りしましたが、自分ではバットが出かかって止めるよりも、思い切って振ったほうが投手に考えさせることができるし、いいんじゃないかと思っていました。でも、それをよしとしないコーチもいるわけで……」

 その口ぶりからは、「オレだって考えているんだ」という思いが伝わってくる。キャリアを重ねるうちに、そうした思いが鬱積していったのだろう。

「横浜でも、田代(富雄)コーチはポイントを絞ってアドバイスしてくださったので、とてもわかりやすかった。あと、バッティング練習の時にゲージに寄りかかって見られるのって、すごくプレッシャーなんですよ。僕のことなど見ていないのかもしれないですけど、気になって仕方なかったです(笑)」

 2012年オフ、吉村はトレードで福岡ソフトバンクホークスに移籍する。監督は、小さい頃から憧れていた秋山幸二だった。

「秋山さんは西武からダイエー(現・ソフトバンク)に来られて、40歳近くになってもバリバリプレーされていた。体も大きいし、昔はメジャーに一番近い選手と言われていて……。監督になられてから接しましたが、余計なことはおっしゃらず、的確に指導していただきました」

 その後もソフトバンクの一員としてプレーしたが、2018年のシーズンオフに戦力外通告を受ける。34歳の時だった。

「すごい選手がいるなかで、日本を代表する打者になりたいと思ったけど、なれなかった。もっとやれるという思いで、現状に満足することなくやってきたのですが……でも、責任は自分にあるので」

 戦力外となった吉村は、福岡・筑後で行なわれた12球団合同トライアウトに参加した。

「わずかなチャンスですから……打つ、打たないもあるけど、『体は元気だぞ!』というのを、キャッチボールの時からとにかくアピールしました。走れるし、スイングもできるし、どこも悪いところはなかったですから。でも、結果がダメなら仕方ないと思って……覚悟はしていました」

 結局、NPB球団からのオファーはなかった。

「プロ野球選手になった以上、トライアウトは経験しておこうと。のちに、トライアウトの話題になった時に知らないよりも知っておいたほうがいいという気持ちもありました。あの独特な緊張感も経験できたし、なんの悔いもなかった。あそこで結果を残してチームと契約する人は、まだプロ野球界に役割があるんだろうと。でも、オレだって次の挑戦が待っている。何かの役割があるだろうと思っていました」

 吉村が次にプレーする地に選んだのがオランダだった。

「2015年に(オランダ出身の)バンデンハークがソフトバンクにやって来て、いろいろと話をしたのですが、僕はオランダに野球があるって知らなかった。『キャリアを終える時、ぜひオランダの野球を経験したい』と、彼に話したんです。イタリアやメキシコに行くことも考えたけど、オランダですることになって。じっとしているくらいなら野球をやりたいなと。給料はありません。交通費なのか、食費なのか、5万円くらいもらっただけです。

 今まで、野球のなかで一番いいところでやらせてもらっていた。オランダではケータリングとかも一切ないし、コンビニもないから、ごはんを食べるのに苦労しました。大変でしたけど、そういうのを経験できたことはよかったと思っています」

 そして昨年のオフ、吉村は沖縄に創設された新球団「琉球ブルーオーシャンズ」への入団を決めた。

「去年の夏も、現役続行の気持ちがあったのでひとりで練習を続けていました。そこへ琉球ブルーオーシャンズからの話があって、元DeNAの小林太志さんが社長を務められると聞いて、入団させていただくことにしました。本当に実現するのか、チームはどこを目指しているのかといったことも確認しないと、という気持ちもあったのですが、コーチじゃなく選手として声をかけてくれたことは、素直にうれしかったです。

 選手として若い仲間と一緒にやっていると、同じレベルでアドバイスできる。これっていいなあと思います。コーチじゃないから自分から言うことはないけど、聞かれたらアドバイスする。僕はこれまでベテラン選手の声に何度も救われてきたので、そういう存在になれたらいいなと思っています。チームには、元NPBの選手だけじゃなく、大学、社会人などからやってきた若い選手がいます。いろんな失敗をしながら、感覚を磨いていってほしいですね」

 新しいチームでの毎日は新鮮だ。

「このチームの面白いところは”ゼロからのスタート”だということですね。船が砂浜から進水するみたいな感じです。いくらいい船でも、みんなで押していかないと進水できない。また、沖縄に新球団がなぜできたのか、ということについても考えました。バスケットの琉球ゴールデンキングの試合を見て、すごい熱気を感じました。『みんなで何かやってやろう』という気持ちが伝わってくる。沖縄という地に可能性を感じましたし、僕たちもこの沖縄でいいプレーを見せたい。2月はNPBのいくつかのチームが沖縄でキャンプをしていましたが、これからは僕たちが子どもたちにとって憧れる存在になってみせる。そういう気持ちです」

 現在35歳の吉村は、まだ”何か”を求めて冒険を続けている。それは野球選手としてもうひと花咲かせようとしているのか、それともケジメをつける場所を探しているのか……。沖縄という地にその答えがあるかどうかはわからない。しかし、吉村の野球に対する思いは、ブルーオーシャンのように澄んでいた。