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「悲運のエース」が沖縄から見つめる高校野球の未来(後編)

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 プロ野球を引退した大野倫は、福岡でカーディーラーの仕事を4年間勤め、その後、母校である九州共立大の職員になって入試関係の仕事をしたのち、沖縄に戻ってきた。

「当時の沖縄はまだ野球が盛んで、友人に『子どもを教えに来てくれないか』と言われ、野球に対する思いがよみがえってきて……。それで野球の指導に携わっていこうと思ったんです」



ボーイズリーグで指導をする傍ら、野球の普及活動にも力を入れている大野倫

 そして大野は、郷里のうるま市に「うるま東ボーイズ」を設立。中学生を相手に硬式野球の指導を始めた。

「僕は沖縄で野球の楽しさに気づかせてもらった。自分の経験を伝えられたらという思いで始めたんです。ただ、当初はどちらかというと『勝ちたい』という思いが強かった。練習は厳しくしたし、怒鳴ったりもしていました。でも、最近の沖縄の事情を考えると、そればかりでも……という気持ちになってきています」

 とはいえ、大野は「高校野球を楽しく」という風潮には違和感を抱いている。

「誤解してほしくないのは、競技である以上は”勝負”の時があるということです。オリンピック選手も金メダルがかかった時にはプレッシャーを感じるだろうし、とてつもない努力も必要になる。僕は段階があっていいと思っています。最初は野球の楽しさを教えなきゃいけない。それで段階的に技量が上がってくれば、それに伴って厳しいところも出てくるわけです。問題なのは、小学校の段階でそれをやっちゃうことですね。今も小学校の指導者の多くは、”段階”が理解できず、勝利を求めて、子どもに無理をさせてしまう。自分が正しいと思っていることについて、指導者自身が『本当にそうなのか?』と、あらためて考えなければいけない。本当の意味で、指導者が変わっていかないといけないと思います。説明してもわかってもらえないから、ルールで規制する必要があるのだと思います」

 中学硬式野球の全国大会である「ジャイアンツカップ」は、今年から1日最大80球以内、連続する2日間で120球以内とする球数制限が導入される。

「それは大賛成です。戦い方が変わるのは間違いないでしょうね。複数の投手を最初から用意しないと勝ち上がれなくなります。そういうルールで子どもたちを守り、指導者が変わらざるを得ない状況にしていかなければならないと思います」

 大野はボーイズリーグの指導のかたわら、昨年から小学校の低学年以下の子どもたちを対象に「野球教室」を始めた。

「うちの次男坊は小学5年生で野球チームに入っています。それで息子の野球チームの送迎をしたり、審判をしたりしているのですが、野球をする子どもたちが減っていると肌で感じたんです。大会で入場行進するチームの列がどんどん短くなっている。昔は20~30人は普通にいたのですが、今はその半分ぐらい。いろんなチームをリサーチしたら、低学年は本当にいない。1学年4、5人程度で、10人もいたら大所帯です。

 少子化もあるでしょうが、野球人口の減少はそれをさらに上回っている。沖縄でも空き地が減り、ボール遊びが禁止になるなど、子どもが野球をする環境がどんどんなくなっています。サッカーやバスケットボールなど、ほかのスポーツに奪われているという面もありますが、共働きが増えて、送迎の問題などもあって、何もやらない子どもが増えていることも大きい。部活がしたくてもできない子どもが増えているんです」

 野球人口を増やすために、昨年1月から活動を始め、3月にNPO法人「野球未来.Ryukyu」を立ち上げた。

「いろんな人に相談しましたが、最初は『なにそれ?』みたいな反応でした。どこもやっていない取り組みでしたから。NPBの球団が野球普及のイベントをしていますが、それは年に数回、幼稚園や小学校を回るような内容です。僕がやりたいのは、日常的に野球に触れる機会を提供するものです。45分の通常の体育の授業のなかで、僕が野球を教えるんです。日常の学校生活のなかに野球がある。授業時間内だから負担もないし、イベントとして構えることもありません」

 実際にやり始めると、『沖縄タイムス』や『琉球新報』という地元紙が取り上げて話題となり、依頼がくるようになった。

「今のところ、こちらからは営業はしていません。口コミで『うちの学校でもやってほしい』と依頼を受けています。無料だから、次もお願いしやすい。継続性を重視した活動形態にしたんです。資金は地元の企業や個人の方々からの賛同や支援、クラウドファンディングなどで集めています。

 授業はキャッチボール重視です。子ども用のクラブはZETTさんが活動に賛同くださり、提供してくださいました。バッティングも少しやりますが、まずは野球の原点であるキャッチボールを最優先に考えています。もともと文科省の指導要領に”ベースボール型授業”というのがあるのです、野球になじみのない先生方にとって、どう指導するかがひとつの課題でした。だから、野球の基本の部分を僕が担うことになったんです。

 当初は不安もありましたが、子どもたちの反応は想像以上でした。『野球ってまだまだいけるな』と確信しましたし、勇気をもらいました。去年は約70校、4000人の子どもたちに教えました。一度の授業ではなく、2~3回リクエストをしていただいた学校もありました。ここまで増えてくると、僕ひとりではできなくなります。事業化がこれからの課題になります」

 大野は自分がモデルケースになればいいと考えている。

「今やっている授業を全国に展開するのではなく、プロを引退した選手がそれぞれの故郷に帰って活動する。ひとつの事業形態ができれば、元プロ野球選手のセカンドキャリアにもつながってくるんじゃないかと思っています。地元に帰ってこそ、反響も大きいのだと思います」

 また、授業した翌日に少年野球チームに入団する子がいるなど、具体的な手応えもあった。

「今、国は部活動を民間に移管しようとしていますが、その流れのなかで事業化の方向性は見えてくるんじゃないかと思います」

 大野は2019年11月からラジオ沖縄で『夢を語れ! 大野倫のフィールド・オブ・ドリームス』という番組のパーソナリティーを務めている。毎回、野球だけでなく、幅広いスポーツ関係者をゲストに呼んで、子どものスポーツ環境問題について、情報を発信している。

 大野は、”昭和の野球”の最も過酷な部分、ひとりで何百球も投げぬくという体験をしてきた。そして甲子園という地で、投手生命に終止符を打った。その大野が、30年の歳月を経て「子どもたちを守る野球」を教え、「野球の楽しさを伝える」伝道師になっている。そんな大野に、あらためて恩師である栽弘義監督について聞いた。

「感謝しかないです。栽先生だけではなく、当時の名だたる指導者はスパルタでしたが、『その人についていけば絶対に甲子園に行ける』『絶対に成長できる』という思いがあったからついていけたんです。

 ボーイズの指導を10年続けて、今年も教え子4人が甲子園に出場します。一番底辺で”野球の楽しさ”を教えることと、甲子園に行くような”野球の厳しさ”を教えることは、僕は矛盾していないと思います。沖縄の地で、野球をする子をひとりでも増やすことが、栽先生の遺志を継ぐことだと思っています」