~第26回目~ 菊池教泰さん(きくち・のりやす)さん/40歳 柔道選手→会社経営(デクブリール) 取材・文/奥田高大 ※スポーツ庁委託事業「スポーツキャリアサポート戦略における{アスリートと企業等とのマッチング支援}」の取材にご協力い…


~第26回目~
菊池教泰さん(きくち・のりやす)さん/40歳
柔道選手→会社経営(デクブリール)

取材・文/奥田高大

※スポーツ庁委託事業「スポーツキャリアサポート戦略における{アスリートと企業等とのマッチング支援}」の取材にご協力いただきました。

小学校1年生のとき、町道場の先生にスカウトされて柔道をはじめた菊池教泰さん。中央大学3年生のときには全日本学生柔道優勝大会で優勝を果たし、4年生で同柔道部主将に就任。

同年、デンマーク国際柔道大会100キロ超級で優勝を成し遂げ、その後は小川直也さんや瀧本誠さんがかつて在籍し、近年ではベイカー茉秋さんなども所属する実業団柔道の名門、JRA日本中央競馬会に入会(入社)した。

才能に恵まれ、順調にキャリアを重ねていったように見える菊池さん。しかし、自身で才能があると思ったことはないという。

「選手時代は“才能があるから練習量を積めば勝てる”と、人から言われたりもしました。でも、私には才能がないという自覚があったんです」

中学時代は試合に出場しても地区大会の1回戦で敗退。それでもJRAに入れるほど強くなれたのは、“とにかく考えて練習してきたから”だという。

「全日本に出るような強い選手の多くは、子どものころから強く、ずっと全国区で活躍していることが多いです。でも、私は子どもの時は強くないし、実は柔道選手としてのスタイルが中学・高校・大学で、まるで別人になっています。つまり、”子どものころからの延長線上のスタイル”ではないです。

小・中学生のころはやらされていただけ。高校は監督がスタイルを押しつけない指導だったので、毎日どうすれば強くなれるかと、目的や課題を考えて練習を続けてきました。大学では恩師が世界チャンピオンだったため『一流の型(しっかり組む柔道)』を教わりながらも、それをさらに自分でアレンジして工夫する。その積み重ねで結果がついてきました。超一流と呼ばれる選手が自身のセンスで行うのとは対照的に、私は考えぬくことで強くなることができた選手。いってみればセンスのなさを“考えること”で補ってきたんです」 大学3年生で日本一。さらに学生・実業団・警察の各3位までのチームが日本一を争う大会でも成績を残したが、怪我にも泣かされ、大学卒業後は選手を引退する予定だった。しかし、将来性を買われ、2002年にJRAに入会(入社)した。

「JRAに入れるなら、五輪を目指してもいいんじゃないか。最初はそういう気持ちでした」

JRAでは、週の半分は配属された本部の人事部で業務をこなし、週末は全国の競馬場等に出張職員として勤務。そして、朝夜が柔道、昼は仕事という『柔道・仕事の両立』の日々が、今の菊池さんにとって大きな影響を与えた。

「アスリートが競技引退後、仕事を探そうとなったときに、いちばん困ることは選択肢が思いつかないことです。競技に専念してきたために、”世の中にどのような仕事があるのか”。”自分がどのような仕事をやってみたいのか”がわからない。その点、僕はJRAで人事という仕事に出会い、人と組織をマネジメントする仕事にとても興味が湧いたんです」

JRAで現在の仕事にも通じる“人事”の面白さを知った菊池さん。ただ、選手としては大学時代からの怪我に悩まされ続け、2005年に引退を決意する。

「選手として結果を出せなかった理由はいくつかありますが、1つは年に1人しか選手を採用しないようなエリート実業団に入れたことで満足してしまったこと。もう1つは怪我です。大学4年の最後の試合で、膝の前十字靭帯断裂、内側側副靭帯損傷、半月板損傷の3つを一度に同時受傷(アンハッピー・トライアド)してしまいました。

その影響で、元々受けが強くて投げられないことが特徴だったのですが、ふんばりが効かなくなり、ポンポン投げられるようになってしまったことと、得意技だった大内刈を決めきれなくなった。こうすれば技がかかると分かっているのに、膝がそこまで曲がらないという状況に諦めてしまったんです」

選手引退後も職員として働き続けることができたものの、メンタルを崩してしまい、05年12月にJRAを退会(退社)した。

「当時は人間関係もうまくいきませんでしたし、会社にいると10年後、20年後の未来が見えてしまって、自身の可能性が抑制されてしまうことにも抵抗がありました。次第に、どれだけ寝ても眠い、文章を読んでも頭に入ってこない、気分がずっとめいるといった“うつ状態”の症状がでてしまい、もう会社を辞めるしかないと考えました」(前編終わり)

【プロフィール】
菊池教泰さん(きくち・のりやす)
1980年3月生まれ、北海道出身。中央大学3年のときに全日本学生柔道優勝大会優勝などの成績を残し、卒業後は柔道の名門JRA日本中央競馬会に入会(入社)。2005年に退会(退社)し、09年に株式会社デクブリールを設立。19年には一般社団法人日本スポーツチームアセスメント協会(JSTAA/ジェスター)を設立し、代表理事を務める。

※データは2020年3月9日時点