向正面から世界が見える~大相撲・外国人力士物語第7回:栃ノ心(1) 黒海、臥牙丸に続くグルジア(現ジョージア)出身力士として、2006年春場所(3月場所)で初土俵を踏んだ栃ノ心。母国で柔道に励み、オリンピック出場を目指していた彼は一転、異国…

向正面から世界が見える~
大相撲・外国人力士物語
第7回:栃ノ心(1)

 黒海、臥牙丸に続くグルジア(現ジョージア)出身力士として、2006年春場所(3月場所)で初土俵を踏んだ栃ノ心。母国で柔道に励み、オリンピック出場を目指していた彼は一転、異国の地で相撲に人生を賭けることとなった。

 身長190cm、体重140kg強の恵まれた体躯と腕力を武器にして、順調に出世。2008年夏場所(5月場所)には新入幕を果たした。だが、2013年名古屋場所(7月場所)に大ケガを負って、以降は連続休場を余儀なくされた。

 その結果、一時は幕下下位まで番付を下げたが、腐らずリハビリに励んだ栃ノ心。2014年九州場所(11月場所)で再入幕を果たすと、2018年初場所(1月場所)で初優勝を遂げた。そして、同夏場所後には、30歳にして大関昇進。遅咲きの花を咲かせた。

 その後、大関から陥落し、現在は平幕で相撲を取る栃ノ心。自らの、山あり谷ありの相撲人生を激白する--。

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 2019年春場所は、私にとって、試練の場所でしたね。

 その前年の名古屋場所、新大関に昇進した私は、初日から5連勝と絶好調でした。しかし、6日目の取組で足を負傷。その場所は途中休場となって、翌秋場所(9月場所)には、早くも”カド番”に追い込まれてしまいました。




ジョージア出身の栃ノ心

 大相撲では、大関で2場所連続負け越したら、翌場所関脇に陥落するという決まりがあります。つまり、1場所負け越してしまえば(休場なども含む)、すぐに剣が峰に立たされてしまうのです。調子がよかっただけに、その時は本当に目の前が真っ暗になりましたね。

 ただ、幸いにも、翌秋場所では勝ち越し。なんとか「陥落」を免れることができました。そして、続く九州場所でも勝ち越すことができたのですが、年が明けて2019年の初場所では、初日から4連敗。太ももの肉離れが原因で、再び途中休場を余儀なくされました。おかげで、春場所では2度目のカド番に見舞われてしまったわけです。

 その試練の場所。私は、大関として恥ずかしくない成績を残したいと必死でした。

 気持ちは十分ありましたし、実際9日目までに6勝を挙げて、勝ち越しは見えている状況でした。ところが、12日目に全勝の横綱・白鵬関に敗れ、翌13日目にも横綱・鶴竜関相手に黒星。14日目には玉鷲関に勝ったものの、千秋楽を7勝7敗で迎えることになりました。

 千秋楽の対戦相手は、関脇・貴景勝です。直近2場所で好成績を挙げていた貴景勝は、私に勝って10勝すれば、大関昇進が確実になります。一方、私は負ければ、7勝8敗と負け越し。翌場所は、関脇に陥落となります。

 つまり、2人とも”大関の座”を賭けての一番だったわけです。なかなか残酷な取組ですよね……。角界の先輩としては負けられない一番ですし、「絶対負けるものか」と思っていましたよ。

 大阪府立体育会館のボルテージも最高潮に達していました。

 立ち合いから、すべてにおいて勝っていたのは、貴景勝のほうでした。私は右からカチ上げていったのですが、貴景勝は迷いなく頭から当たってきて、それを跳ね返し、突き押しで私を土俵際まで追い込みます。そしてそのまま、私は押し出されてしまいました。

 若さとパワー。加えて、「大関をつかみ取るんだ」という意欲。貴景勝に完敗を喫した私は、大関在位5場所で、その座を失ってしまったのです。

 私が生まれたのは、ジョージア(元グルジア)の首都・トビリシからそう遠くないムツヘタという田舎町。ジョージアといっても、日本人にとっては、馴染みがないかもしれませんね。私が生まれた1987年頃はまだ、ソ連(現ロシア)の統治下にありましたし。

 私は、ジョージアの山が大好きで、とくにカフカスの山深い地域は最高です。そこには、車では行けないような、すごく小さな町があるんです。途中で車から降りて、そこから馬に乗ったり、歩いていったりして、やっとたどり着くことができます。

 その小さな町には、先住民族が住んでいて、彼らはチーズや野菜などを作って、そうしたナチュラルなものを食べて暮らしています。それが、すごく美味しいんですよ。また、そこに住む人たちは、本当に優しくて、気持ちも強くて、普通のグルジア人とは違う、自分たちの文化を持っています。

 さて、私の話に戻しましょうか。

 お爺ちゃんの影響を受けて、私が柔道を始めたのは、たしか6歳くらいの時です。でも、いろいろな事情で道場が閉鎖になってしまい、再び柔道を習うようになったのは、12歳の時でした。

 その時から、サンボも教わるようになりました。サンボというのは、ロシアで生まれた、柔道とレスリングを合わせたような競技です。そうして、私は柔道とサンボの練習を日々重ねて、ヨーロッパジュニア選手権にも出場。そこで、いい成績を残していたんですよ。

 その頃、相撲というスポーツは、ほとんど知りませんでした。でも、私の柔道やサンボの試合を見ていてくれた方の推薦もあって、私は日本の大阪で開催された世界ジュニア相撲選手権に、グルジア代表で出場することになりました。2004年のことです。

 相撲を本格的に取ったことはなかったけれど、当時、私はまだ17歳。「日本に行ってみたい」という単純な興味だけで、出場することを決めたんでしょうね。

 初めて出場したこの大会で、私は個人戦で3位になりました。団体戦では、日本に次いで2位。もうビックリですよ。次の年もその大会に出て、結果を残しました。

 とはいえ、当時の私にとって、相撲はあくまでサブ。”本業”の柔道でもっといい成績を残して、将来はオリンピック選手になりたい--この思いはずっと変わりませんでした。

 だけど、その頃のジョージアは、経済など、いろいろな面で恵まれているとは言えなかったんですね。オリンピックに出て、たとえメダルを獲ったとしても、必ずしも将来を保証されるわけではない。

 だから、私はジョージアにいた学生時代に、歯科技工士の資格も取っているんです。柔道で生活できなかった時、「食いっぱぐれないように」と思って(笑)。

 で、ちょうどその頃、大相撲の世界では、同じジョージア出身の黒海関が活躍していました。そして、そんな黒海関と対面する機会があって、その時にこう言われたんです。

「努力すれば、相撲の世界で生活できるかもしれないよ」

 その言葉に、私の心は動かされましたね。

 そうして、「相撲留学」といった形を取って来日。日本大学相撲部の寮で、言葉や習慣、礼儀などについて、3カ月ほどの研修を受けることになりました。

(つづく)

栃ノ心剛史(とちのしん・つよし)
本名・レヴァニ・ゴルガゼ。1987年10月13日生まれ。ジョージア出身。春日野部屋所属。筋肉隆々の体と、豪快な吊り出しや上手投げで熱い人気を誇る。着物を着こなすファッションセンスと料理の腕前も注目を集めている。2020年春場所(3月場所)の番付は、西前頭9枚目。